子供ができずに悩む夫婦が、不妊治療を受けることがある。
いろいろな治療がある中で、夫婦以外の第三者(ドナー)から、精子や卵子の提供を受けることもある。
これまでだったら、そうして生まれた子供に、ドナーがどこの誰であるかは教えなかった。そもそもそうした手法で授かったことすら、当の本人には秘密だったかもしれない。
だがそれではいけない、というのが最近の流れなのだ。
人間は誰でも、自分の出自を知る権利がある。つまりは自分はどこから来たのか、自分の出どころのことだ。
配偶子提供の事実は、告知しなくてはいけない。その上本人が望めば、提供者の情報も開示する義務がある。そのことを、法律としてちゃんと、定めるべきだというのだ。
何しろその人物は、生物学的には――遺伝的にはその子供の、親の一人なわけだから。
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一見もっともな話だが、自分には滑稽に響いてならない。
なぜってそれは「実の親は誰?」という、定番のメロドラマの設定の、現代版にすぎないからだ。
そんな筋書きがいかに馬鹿げているかは、かつてここで述べた通りだ。
私たちを私たちたらしめているものは、その肉体ではない。DNAの配列ではない。器の中に宿った精神(こころ)こそが、私たちの本質なのだ。
産み落としただけの親なんて、種をまいただけの親なんて、ただの肉体製造装置にすぎない。
あなたの本質を育んだものは、その後にあなたが生きてきた環境であり、親で言うならたっぶりの愛情を注ぎ、ともにかけがえのない時間を過ごした育ての親こそが、本当のあなたの出自なのだ。
ところが、安物の親探しの芝居にあおられて、――血縁なる神話にたばかられて、現実の継子たちも無用の煩悶に苦しんだ。まるでドラマの中の、悲劇の主人公にでもなった気分で、悩みぬいたのだ。
そして現在、まさに生殖医療の世界において、まったく同じ茶番が繰り返されようとしている。
まあもちろん、彼らの複雑な事情に同情はするけれども、何もかも実は無意味な懊悩であることを、誰か教えてやってくれないか?
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かつて英語の講師をしていたときに、identity という単語の解説をしたことがある。
「自分=x」という、方程式の解こそが identity というものだ、と喝破したのだ。
自分とは一体何者なのか、という問いに対して、あなた自身が思い描く答え。それがあなたの、アイデンティティなのだ。
辞書の訳語を並べれば、文脈次第で「正体」とも、「身分」とも、「自己認識」ともなる。それこそ、その他無数の日本語に化けるのだ。
俺は日本男児だと胸を張るなら、それが。神のしもべですとへりくだるなら、それが。鈴木の家内ですと名乗るなら、それが。すべてあなたの、アイデンティティとなるのだ。
さしずめ実の親だの、出自だのと騒いでいる連中は、肉体の遺伝子配列こそ自分の本質(アイデンティティ)が存すると、思い込んでいるのだろう。
もちろんすべては、あまりにもバカバカしい、勘違いであることは言うまでもない。
そんなに出自が――出てきたところが知りたければ、一言「アソコ」(=女性器の俗称)と、答えておけばいいだけの話である。
と、私はそう思うのだが、諸兄のご意見はいかがであろうか?(笑)
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