(話は前回から続く)
子孫を残す生殖の営みは、無意味な奴隷の苦役でしかない――
*
そんな私の物言いを聞いて、人は反論するだろう。私が子を望むのは、永生を得たいからではない。ただ暖かい家族を、もうけたいからだ。
そうして小理屈をこねるお前は、親子の情愛のこまやかさを、家族の絆の強さを、少しもわかっていないのだと。
だがそれもまた、大きな勘違いである。
だってそうだろう。そんな親族の情愛と、絆を生んだものは、けっしてDNAの相似ではない。
ただいつくしみあいながら、ともに過ごした時間が、そうなさしめているのだ。
だとしたらそれは、別に子供でなくてもいいのだ。
例えば夫婦の場合で言うなら、二人のDNAの配列は、もちろんいささかも酷似してはいない。それでも重ねた歳月が、切っても切れない紐帯となって、彼らを結んでいるのだ。
また養父母とその子の間も、実子と変わらぬ強い思いでつながれている。
実の親でないことを知って衝撃を受ける。自らのルーツをいぶかる。――それはただ安作りのドラマの、ステレオタイプの筋書だった。そんなものはただ、「血縁」という文化的仮構に踊らされた、愚行にすぎない。
あなたのルーツは目の前の、二人の親だ。産み落としただけの親など、あなたをあなたたらしめているものとは、いささかのかかわりもない。ただの肉体の、生産工場にすぎない存在なのだ。――
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人類は、生き残りのための戦略として、群れをなすことを選んだ。
群れを固める絆として、初めは確かに、血縁がもっとも有効であった。そこで「血族」という、仮構が生まれたのだ。
集団が次第に大きくなるにつれて、結合の主役は地縁に代わられた。やがてはそれは民族となり、国家となり、宗教となったのだ。
だが主役の座こそ譲れ、「血縁」はけっして、舞台を降りることはなかった。
それどころかそれは、私たちの社会と文化の基底により深く沈潜し、除くことのできない病魔となって巣くっている。
今もなお、あの古い「血」の神話が、私たちをたばかる。
「実の親子じゃないか」。「同じ血を分けた兄弟だろう」。そんなセリフが、当たり前のように聞かれる。
でもさあ、「血」って一体何なの? DNAの配列のこと? ちゃんと学問的に説明してよ。
何をどう分けたの? 輸血でもしたんか?
――その非科学的たるや、まったくもって笑うしかない。
そうだった。およそ「血のつながり」なるものは、はるか氏族部族の時代の、遺物でしかない。
今では何の意味も持たない。役割も果たさない。
ただナチスのハーケンクロイツの腕章か、ボーイスカウトのネッカチーフのような、結団ごっこのお遊びのアイテムとして以外は。――
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(話は次回に続く)
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