生殖は無意味な奴隷の苦役

 (話は前回から続く)

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 人を人たらしめているものは、肉体の器ではない。DNAの配列ではない。

 そのことは誰でも、頭では理解しているはずなのに、ことこの「子孫の」のこととなると、いつのまにか忘れられてしまう。
 動物たちも人間たちも、ときには文字通り命をかけて、子作りに励む。そんな営みが全部、本当はまったく無益な徒労であることを、少しも悟らずに。
 もちろん何をどうしようが、当人たちの勝手だが、ずいぶんとご苦労なことである。

 純粋に性欲に駆られて、のしかかるのはいい。愛情のいとしさのあまり、抱き合うというのならわかる。
 だが、ただ子作りのためだけの生殖なら、何の意味もない。
 人様に子供はまだか、などと言う。子のない者を、負け犬などと呼ばわる。――すべてはただの、愚鈍な勘違いでしかない。

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 生物の個体は、遺伝子の乗り物にすぎない――かつて動物行動学者の、リチャード・ドーキンス氏はそう喝破した(『利己的な遺伝子』)。

 そうだった。
 生物たちは、その必死の生殖行動を行う。
 動物たちの場合は、本能に駆られて。人間たちの場合は、きっとあの永生の錯覚にたばかられて。
 だがそうして引き継がれていくものは、けっして個体自身の命ではない。
 個体は必ず、そのたびに滅びなくてはならない。ただその遺伝子だけが――あるいはそれが属する種の遺伝子だけが、永遠にその組み合わせを変えながら、受け渡されていくのだ。

 もちろん遺伝子自体に、そんな意志があるはずもない。
 あくまでも結果的にではあるが、それはまるで私たち生物の遺伝子が、私たちという個体を乗り継ぎながら――乗り捨てながら、永遠の旅を続けているようにも見える。……

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 だとしたら、確かに生物の個体は、遺伝子の乗り物にすぎない――それがドーキンスの主張である。

 もちろん私は氏の場合ほど、遺伝子に肩入れするつもりはないが、おおまかな趣旨には同感できる。
 それは私たちが、何らかの盲目の意志のようなものに、操られているという感覚。――それが遺伝子かどうかは知らない。だが私たちは確かに、その「何か」のために、意味もない苦役を続けている。奴隷となって、文字通り命をかけて仕えている。――

 テレビの動物番組でよく聞かれる、「命のバトンをつないでいるのです」みたいなナレーション。
 確かにその、必死の営みの姿は、感動的かもしれない。
 だがそ同時にそれは、とてつもなく滑稽で、どこか哀れで物悲しくも見える。……

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 (話は次回に続く)

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