人間の命には、必ず限りがある。だから誰でも、永遠の命を得たい。
だがそれがかなわないから、どうしても何らかの錯覚に、すがろうとするのだ。
それはたとえば来世を説く、宗教であったりもする。だがそれよりもはるかに、多くの人々をたばかるまやかしが、「子孫」なる概念なのだ。
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確かに姿かたちも、性格もよく似た子供は、あなたの分身のように見える。いわば年の若い、もう一人のあなたが、そこに出現したのだ。ということは、もし末代までこの複製が続けば、あなたは不死を実現したことになる。――
だがもちろん、誰もが知るように、それは本当はそうではない。
たとえあなたの子供でも、そこにあなたの遺伝子は、ただの半分しか残っていない。世代を重ねるたびに「血」は薄まっていき、3代も進めばあなたの原型など、もはや跡形もない。
私には子はいないが、今の私の遺伝子と、あなたの10代先の子孫の遺伝子には大差はない。もしともに同じアダムの末裔であるなら、彼は私の子孫でもあると言っても、大きな間違いではないだろう。
少なくともそれは、あなただけの何かではけっしてないのだ。
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否。そもそもあなたの命と、あなたの遺伝子は、似て非なるものである。
あなたという人格は―― 人間を人間たらしめている根源は、けっしてそこにあるわけではない。
例えば一卵性双生児の場合なら、そのDNAは百パーセント同一だ。
それでも彼らは、当然個別の人格である。
性格も違うし、それぞれが別個の思念を追っている。
お互いが相手を、自分の分身などと意識することはない。あいつが生きて残ってくれるのだから、自分は安心して死地に赴く、などということはけっしてないのである。
クローン技術について、しばしば恐怖の筋書が語られる。もしヒトラーが、自分のクローンをいくつも作らせたたら――だがもちろん、心配は杞憂に終わる。
そうして作り出された製品は、見た目はもちろん独裁者にそっくりだが、その中身はいささかも保証のかぎりではない。
遺伝子の一致が、その精神の一致を生み出すわけではない。そこには善良なヒトラーと、邪悪なヒトラーが、ただそれぞれの確率で育つだけなのだ。
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私たちを私たちたらしめているものは、肉体の器ではなく、その中身――おそらくは精神と呼ばれる何かなのだ。
もし永生を得たいと願うなら、行うべきなのはむしろ精神の生殖だろう。
作家の書いた作品は、たとえ部分的ではあるとしても、百パーセント作家の分身である。
私の出来損ないのブログも、出来損ないの私と生き写しの、分身である。たとえ誰にも読まれることはなくても、私の子孫がネットの闇に永遠に漂い続けることを、期待しているのだ。
ちょうどあてもなく海に放精するという、あの魚たちのように。――
もし作家の作品が、読者の中に何かを生み出すことができれば、それも作家の分身となる。
何かを伝えようとする者は、たとえそれが教壇で生徒に道を説く教師であったとしても、行っていることは確かにこの精神の生殖なのだ。――
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(話は次回に続く)
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