半ば前回の続きとなるが、ルイ14世の時代から、フランスの王室にプライバシーというものはなかった。
国王・王妃の日常の一挙手一投足が、 衆人環視のもとにあった。
食事や散策のような、穏やかなものばかりではない。着替えから排便や、それこそ夜の営みにいたるまで。家臣たる貴族たちの目にさらされ、国民全体の知るところとなった。
それではまるで、見世物と変わらない。なぜ王侯たるものが、かかる屈辱に耐えなければならないのか? 誰もがそういぶかるだろう。
だがそれは、あくまでも現代の、日本の人間の感覚である。
お国も時代背景も違う、異文化を理解するときには、あらゆる先入主を捨ててかからなければならない。いったんまっさらな心に返って、物事を眺めなくてはならないのだ。
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およそ人が羞恥の気持ちを感じるのは、目の前の相手を対等以上の存在と、認めている場合だけである。
排便のさなかに、一匹の蠅が便所に紛れ込んできたとする。わずらわしさに手で払うことはあるだろうが、まかりまちがっても、あわてて局部を隠したりはしない。そんな下等な生き物の、目を意識することなどないのだ。
同じように貴婦人は、下人の前で着替えをためらわなかった。裸身をさらすのを、恥じることはなかった。奴隷をいささかも、同じ人間とは思っていないからである。
ましてや万民の君主たる、国王においてをやである。
そればかりではない。ルイ14世と言えば、自らを太陽神アポロンの、化身と言いなしていた。それもただの、言葉のあやとは違う。心底から、そう信じてやまなかったきらいがある。
そしてもし、そうだとしたら。国王のすべての営みは、神々しい光に満ちている。下賤な人間どもに恥じるものなど、何一つないはずなのだ。
家臣がたとえ、王の排便を目の当たりにしたとしても、それはご神体を崇めることと変わらない。王の体を拭うことは、神事に加わるのと同じくらい、名誉な役割ととらえられたのだ。
「朕は国家なり」も、ルイ14世の言葉である。そしてもしそうだとしたら、王の行住坐臥はすなわち国家の行事となる。それにつらなり、慶ぶことは、けっして低劣な覗き趣味とは違う。むしろフランス国民の、当たり前の権利であり、つとめですらあったのだ。
マリー・アントワネットにしても、またしかりだった。
そのプライベートのすべてが、廷臣たちが見守り、国民の知るところとなった。
食事も、着替えも…その出産の際には、あまりに多くの見物人が部屋に詰めかけて、酸欠で倒れる者さえ現れたという。
生まれ故郷のオーストリアで、伸び伸びと育てられたアントワネットは、そんな嫁ぎ先のあまりの有様に、すっかり嫌気がさした。やがて離宮プチ・トリアノンを作らせて、そこに引きこもる時間が増えていったのも、それゆえだったのだ。
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食事も、着替えも、…だとしたら夫婦の営みもまた、密か事ではありえなかった。
もとより閨の中にまでは、立ち入ることはなかったにせよ、お床入りまではしっかりと見届けていた。少なくとも、今週は何回であったかは、衆人の知るところだったわけだ。
それではまるで、晒し者と変わらないではないか。――確かに私たちの、現代の日本人の感覚では、とうてい考えられない。
わが皇室では、そんなことは絶対に起こりえない。小室圭氏のジゴロぶりは、ただ傍で推察するより、すべがないのである。
だがしかしそれはあくまでも、私たちの基準である。そこでは世界が、まるで違う。
異文化を理解するときには、いったんまっさらな心に返って、物事を眺めなくてはならないのだ。
だから私は考える。
もとより閨の中にまでは、立ち入ることはなかった。――それではさすがに、おちおちと励むことも、ままならなかったろうから。
だがしかし、もしあのころに今の時代と同じような、科学と技術があったとしたら。それもまた、可能だったかもわからない。
もしそこに、ユーチューブがあったとしたら。
確かに小型カメラなら、閨に持ち込むこともできる。自撮り棒でも何でも使えば、房事の妨げとなることもなく、実況が可能であろう。
国民がそれぞれのスマホで、あるいはパブリックビューイングで、お二人の夜の生態を観覧する。
それはただ、静かに眺めるだけではない。ルイ16世の一突きごとに、それ行けわっしょい、それ行けばっこん、と掛け声をかけるのだ。
私たちの目には、それがどんなに異体に映ろうとも、フランスの世継ぎを望む国民の声援である。「ニッポンちゃちゃちゃ」の連呼で盛り上がる、競技場の風景とその本質は何ら、変わるものではないのだ。――
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