マリー・アントワネット性に目覚める

 マリー・アントワネットは、オーストリアの王女であった。

 フランスとオーストリアと言えば、従来幾度となく干戈を交えた、敵国同士だった。
 その仲の悪い二国が、新興プロイセンに対抗するために、一転手を結んだ。両国の和解と同盟の証しとして、王女がフランスに輿入れする運びとなったのだ。政略結婚である。
 挙式当時、マリー・アントワネットは満で14歳。お相手のルイ16世は、まだ即位前の王太子で、満15歳であった。

 和解したとはいえ、かつての敵国からの輿入れである。王妃となった後も、宮廷の内外で、反感を買うことも多かった。
 とりわけ結婚後7年にわたって、子を授からなかったことが、最大の攻撃材料となった。
 世継ぎをもうけるのが王妃の、最大のつとめであるとすれば、王妃失格なのだ。
 アントワネットは石女(うまずめ=産まない女)である、という口さがない噂が立った。その言動もあやしまれ、国民の間ですら当時のゴシップ誌あたりで、半ば面白おかしく書き立てられたのだ。

     *

 だが結婚7年目を皮切りに、一転5人の子供を懐妊する。
 うち一人は流産であったが、石女だったはずの彼女が、その後8年間で実に4人の子供を、ポンポコと産み落としたのだ(笑)
 だとしたら一体、そのころの彼女の身に、いかなる重大な変化が訪れたのか? ――

 種明かしをすれば、その年――いや、正確にはその前年に。
 アントワネットの不妊を心配した、母マリア・テレジア(オーストリアの皇后)が、彼女のもとにその長兄ヨーゼフ2世を遣わした。
 子に恵まれぬ国王夫婦の、性生活の相談に乗ったわけだ。
 まだ年若な夫婦にとって、それは無知を正される、教育のようなものとなった。

 判明した事態は、次のようなものだった。
 アントワネットの不妊は、身体に起因するものではなかった。 
 ただ二人の夫婦の営みが、きわめて不完全なものだったのだ。
 夫のルイ16世は、どうやら「出す」ということを、理解していなかったらしい。「入れ」さえすればいい、突き立てるだけで事足れりと、勘違いしていたのだ。
 さすが生粋の宮廷育ちらしく、もっぱら農事にはうとかった。「種をまく」という発想がなかった(笑)
 さすが敬虔なカトリックらしく、ご自分の魔法の杖の先っぽが触れさえすれば、たちまち奇跡のように命が芽吹くと、信じ込んでいたふしがある(笑)

   注:この件についてルイ16世が、男として「一皮むける」手術をした――という俗説が流れ
   ているが、ガセネタである。

     * 

 心やさしき兄君の、啓蒙の甲斐あって、二人は7年目の蜜月を迎えることができた。
 もとより夫婦が、不仲だったわけではない。あくまでも仲睦まじい、間柄であったのだ。
 だとしたら、それまでの空白の時間を取り戻すかのように、きっと閨事に励んだにちがいない。

 何しろ二人とも、寸止めのようなもどかしいままごとから、本物の味をはじめて覚えたのだ。さぞとろけるよなう、熱く甘やかな夜をすごしたことであろう。 
 8年で5回の懐妊も、その必然の結果であった。

 世継ぎにも恵まれて、宮廷での孤立も和らぎ、国民の反感もやまった。
 何よりも、断頭台の露と消えるまでの、短い生涯のその終わりに。母としての悦びと、女としての本当の満足を、ふたつながら味わうことができたのだ。
 そのことはせめてもの幸いであった、と言わねばならない。

     *

 まあ、余計なお世話だけどね。どう見ても。 

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