<幼児視点話法>自分のことを「先生」と呼ぶ先生  

 よく教員が自分で自分のことを「先生」と言うことがある。
「課題が終わったら、先生のところに提出するように」みたいな言い回しである。 

 この語法について、ある中学生の保護者がクレームをつけたそうだ。
「〇〇先生」というのは本来敬称で、呼ばれた人物への尊崇の念を表す。
 それを自分自身で用いるというのは、あまりにも偉ぶっている。勘違いもはなはだしい、というわけだ。

 またそのことを指摘された当の先生が、なるほどそうだ、これからはちゃんと「私」と名乗るように心がけよう、と反省したらしい。――

     *

 以上は最近、朝日新聞の投書欄で紹介され、ちょっとした話題になったエピソードである。
 近頃は世の中で、やたらと物事にいちゃもん・・・・・をつけるのが流行っている。まあこれなんかもさしずめ、無理筋の言いがかりの見本のようなものである。

 もうおわかりだろう。
「先生」を自称している先生は、けっして偉ぶっているわけではない
 だってそうだろう。
 回りから「先生、先生」と呼ばれて、いい気になってふんぞり返っているあの政治家たちは、けっして自分のことを「先生はねえ、……」とは言わないけだから(笑)

 だがだとしたら、この不思議な話法の正体は、一体何なのか? 

     *

 思い出してほしい。
 母親は幼い娘に向かって、「ちゃんとママの言うことを聞きなさい」とさとす。
 本来なら「ちゃんと私の言うことを聞きなさい」と語るべき場合なのに。
 そのうえその母親に向かって、近くにいた父親は呼びかける。「ママ、ちょっとそこのタオル取ってよ」――自分の女房に「お前」ではなく、「ママ」を用いているのだ。

 この呼称法の、趣旨はもちろん明らかである。
 娘から見たら、母親は「ママ」である。その人物があるときは「私」と名乗り、あるときは「お前」と呼ばれていては、幼い子供の頭は混乱してしまうだろう。
 少なくともこの年齢では。まだまだ物事の、名称を覚えている段階では。
「ママでちゅよ~」と自己紹介したあのころの延長で、その知識をしっかり定着させるためにも、あくまで「ママ」ど押し通そう。そんな配慮が働いているのだ。

 子供の目から見て「ママ」であるものは、いかなる状況においても、あくまで「ママ」と呼ばれるべきだ。――
 だとしたらそれは、いわば「幼児視点話法」とでも名付けるべき現象なのだ。
 西洋人はもちろん、そんな言い方はしない。彼らがもし同じやりとりを聞いたなら、きっと「Very cute!」と感嘆する。なんて微笑ましい言い回しだろうと。
 日本人は世界でも、もっとも子供を大事にして、可愛がる民族だと言われる。
 あくまでも子供たちの立場に寄り添って、物事を考える。そんな民族ならではの、独特な発想がそこに隠れているのだ。

     *

 さて、そんな子供たちが、やがて幼稚園に通う年齢になる。
 幼稚園の先生は園児に向かって、「ちゃんと先生の言うことを聞きなさい」とさとす。
 何も不思議はない。むしろ「私の言うことを聞きなさい」の方が、かえって不自然だろう。
 つまりはママが「ママ」と名乗っていた幼児的世界観を、そのまま引き継いでいるわけだ。

 小学校に上がっても、そのまま余勢を駆って「先生」が用いられる。
 だがしかし中学生相手となると、次第に反応が微妙になる。生徒や保護者の半数は、「先生」の自称に違和感を覚えるようになる。それが先述のようなクレームにもつながるのだろう。
 だがしかしそれはけっして、教師が威張っているからではない。むしろそうして、ティーンエージャーをいつまでも子ども扱いすることが、そぐわないと感じられるのだ。

 それが証拠に、大学の教授は誰も「先生はねえ~」とは言わない。
 それは別に彼らが、こぞって謙虚だからではない。
 ただ二十歳前後の学生たちは、もうどこからどう見ても「子供」と受け取られることはないからだ。

     *

 かつて『3年B組金八先生』という、学園物のテレビドラマがあった。
 主演の武田鉄矢は、迷わずこの「先生語」を用いていた。
「そんなキミらの姿を見ていると、先生は悲しいよ。……」みたいなセリフを、例のぼさぼさの長髪を振り上げながら、甲高い声で言うわけだ。

 脚本の意図は明確である。
 中学校ともなると、普通は先生も次第に生徒から、距離を置き始める。
 教育への気持ちも醒めかけて、規則規則で生徒を縛り付ける、管理者の側に身を置き始める。

 だが熱血教師の金八先生は、そうではない。まるで小学校の先生のように・・・・・・・・・・・・・、体当たりで生徒に接する。その青春の悩みとも、真正面から向き合っていく。
 そんなキャラクターを打ち出すためにも、 まるで小学校の先生のように・・・・・・・・・・・・・語らせることが必要だったのだ。
 そのうえこうした「幼児視点話法」は、元来その本質は、家族内会話にある。 3年B組は親身に腹を割りあう、家族のような集団である。そんなイメージを強調するにもまた、「先生は……」が有効だったわけだ。

     *

『金八先生』があまりに人気であったために、その後の学園ドラマもこの「先生語」を踏襲した。

 またそのドラマを見て育った先生たちが、「先生は……」を再生産した。そうして中学生を、いつまでも子ども扱いすることの滑稽には、少しも気づかずに。

――きっとそのあたりが、この珍妙な社会現象の種明かしだと思うのだが、いかがなものであろうか?

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