障碍者の「命の値段」は8割掛けなのか??

「命の値段」という言葉が、しばしば飛び交う。一人歩きする。
 たとえば、最近話題に上ったもので言えば、

ケース1
 犯罪被害者には、支援のために国から、給付金が支払われる制度がある。(注)
 その給付金の算定について、抗議の声が上がった。(注)
 ご記憶と思うが、2021年に大阪市北区で、心療内科クリニックの放火殺人事件があった。26人が犠牲となった。 
 心療内科という性質上、被害者の多くは休職中や無職で、収入がなかった。
 そのことをもって、給付金の算定額が著しく低かったために、「命の値段に差をつけるのは不当だ」と訴えているのである。 

ケース2
 同様の抗議は、性別についても起こっている。(注) 
 名古屋の商業施設で起きた殺人事件では、被害者が専業主婦であったために、給付金額は370万円と低く抑えられた。
「妻の命は値段は370万円なのか……」
 と残された夫は絶句している。

      *

 だがしかし、――
 この制度(犯罪被害給付制度)について、誤解してはならない。

 まずはきわめて当たり前のことだが、これは国が被害者の命を、買おうという話ではない。
 いくらいくら払いますから、代わり死んでいただけませんか、と頼んでいるわけではない。
 それなのにどこから、「命の値段」なる言葉が飛び出してくるのか、不思議でならない。

 そもそもこれらのケースで、国は犯罪に何ら直接の、責任を負ってはない。犯罪の償いをするのはあくまで加害者なのだから、給付金は償いの金(補償金)ですらない。ただの「支援金」にすぎない。
 支払い能力の問題もあって、被害者やその家族はは加害者側から、十分な補償を受けられない場合も多い。当面の生活にも困ることも多いので、国がわずかばかりの支援をいたしましょうと。
 あくまでも事件による当座の困窮を、救済しようという趣旨なのだ。だとしたら失った金額が、――事件直前の収入がその算定の基準となるのは、きわめて理にかなっているはずだ。
 別に命に値段をつけるとかいう、そういう問題ではないのである。

 あくまでも共助の精神から、福祉の一貫として、支払われるお金である。
 生活保護や母子手当とかいうものと、その本質は変わらない。
 いわば国から「助けてもらっている」にすぎない。
 助けてもらっている分際で文句を垂れるな、とまでは言わないが、抗議の方法はあまりにも見当違いだ。    
 たとえば月10万円の、生活保護を受給している人間が、「オレの命の値段は月10万か!」と怒りの声を上げたとしたら、誰が取り合うだろう?
 彼らもまた、それと同じような愚を犯しているのである。

     *

 給付金ばかりではない。
 加害者から受け取る、補償金の場合も同様である。

ケース3 
 聴覚に障害のある女の子が、交通事故で亡くなり、 遺族が加害者相手に賠償を求める裁判を起こした。(注)
 賠償金の額は、女の子が将来得られたであろうと、予想される収入(逸失利益)で決まる。
 日本の現状では、聴覚障害者の平均賃金は、労働者全体のそれのおよそ6割にとどまる。
 この事実を踏まえて、裁判所は賠償金の額を健常者の場合の8割(3700万円余り)と算出した。
 遺族はこの判決を、障碍者に対する差別と批判している。頑張って生きた娘の命の値段は、それほど安く見積もられるのかと。

 ここにもやはり、まったく同じ勘違いがある。
 8割で3700万円、10割なら4625万円というのは、けっして「命の値段」ではない。
 その金額で加害者が、被害者の命を買っているわけではない。
 日本語に「あがなう」という言葉がある。物を買うことを示すと同時に、罪をつぐなうことも表す語句である。
 罪のあがないは、刑法によって、国が加害者に課す。加害者が死刑になったのなら、加害者はその命で、被害者の命をあがなったのだ。懲役刑なら、もちろんきわめて不十分ながら、その懲罰であがなったとされる。

 一方遺族が起こした裁判は、民事裁判である。民法は罪のあがないを求めるものではない。
 現在のわが国のシステムでは、被害者が直接加害者を裁き、罰を課すことはできない。報復として制裁を行うようなことは、認められていないのである。
 遺族が求めることができるのは、あくまで「賠償」である。加害行為によってもたらされた、経済的・心的損失を埋め合わせることだ。
 だとしたらその金額が、逸失利益を勘案して算定されるのは、何の矛盾もない。ごくごく当たり前の成り行きなのだ。

 かつては障碍者の逸失利益が、0円とされた時代もあった。障碍者には働く場が、なかったからである。
 今では社会の情勢も変わり、障碍者の平均賃金は一般の6割にまで及んだ。そこにさらに上積みをして、8割の賠償と結論したのだから、格段の進歩と言っていいはずだ。
 そこに「命の値段」なる論法を持ち込んで、満額払えと迫るのは、あまりにも無茶な要求と言わざるをえない。゜

     *

「命の値段」を言う人に、そもそも問いたい。

 命に値段があるとして。それが障碍者と健常者で、差別なく等しいとして。それっていったい、一個おいくらなんですか?
 4625万円なんですか? それだけもらえれば、命を売ります。死んでもかまわない、って人がいるのだろうか。

 あなたの起こしているその裁判って、娘の命の売買の、価格交渉なんですか?
 その金額が命の代価だとして、それって遺族が受け取るものなの? 本人が亡くなっているから、代わりに相続人が請求するということ?
 娘の命は売り物なの? 子供は親の所有物だから、売りに出しているの?

 かけがえのないと言われる命なら、人間も動物も、その重みに変わりはないはずだ。命の値段は同じなはずだ。
 てことは、万一飼い犬を殺されたら、4625万円請求できるの?

――等々、ツッコミどころはいくらでもある。
 それはそうだろう。元々がおとぎ話レベルの、荒唐無稽な主張なんだから、攻撃材料には事欠かない。

 論理の破綻とか、すり替えと言うより以前に、論理ですらない。
 ロジックではなく――ロゴスではなく、パトスに訴える。 
 文学的な言葉のあやにすぎないもので、目くらましを食らわして、少しでも金額を吊り上げようという詐術でしかない。

 口の悪いネット民なら、例によって言うであろう。「金ですか?」「金が目当てですか?」
 自分は口が裂けても、そんな非情な言葉はかけはしない。
 だがしかしあまりにも、――頭が悪いとは言わないが、非論理的すぎるのは間違いがないだろう。……

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