宝塚の騒動が、収まる気配を見せない。(注)
ネットでも劇団批判がやまないが、一方擁護しようというコメントもある。
中にはそれが暴走して、被害者やその家族への、心ない言葉となる。(注)
いじめと言うけれど、証拠はあるのか? この程度なら、パワハラなんかじゃない。両親はまるでモンペ(=モンスターペアレント)じゃないか、等々と。
自殺した劇団員は、上級生に「前髪の作り方を教えてあげる」と、高温のヘアアイロンを額に押し付けられ、やけどを負わされた。
母親宛てのLINEで、「やけどさせられた」「わざとな気がする」と打ち明けており、そのメッセージが証拠として公開された。
その件について、
ヘアアイロンを押し付けたのなら、最悪骨が剥き出しになるような大火傷になるはずだ。
それなのに彼女は、普通に仕事ができていたじゃないか。
遺族側も、下手な捏造はやめた方が良い。
と言いがかりをつけて、遺族を貶めているのだ。
*
こればっかりは、聞き捨てならない。
「いじめ」の本質が、まるっきり理解されていない。
いじめを事とするような連中が、いかに陰湿で、ずる賢い人種であるか。――
やつらはけっして証拠となるような、痕跡を残したりはしない。
病院送りになるようなことをすれば、たちまち表ざたになり、自分たちが咎められる。
そんなヘマは、絶対にしない。
いつでもその直前で、ぴたりとやめておく。
だから火傷も、傷も残らない。それでも被害者を恐怖と絶望に、陥れることはできる。凍てつかせ、支配することができる。
体は無傷なままで、ただ心だけをズタズタにする。そして願わくは、死に追い込む。
それがやつらの、いつもの手口なのだ。
骨が剥き出しになるような、大火傷を負わせる? それは「いじめ」じゃない、「暴行」だ。
野蛮で、下等な、体育会系の人間が。後先を考えずに、激情に駆られてやることだ。
いじめの手口は、もっと洗練されている。「高等」で、「文明的」だ。けっして足がつかないように、陰で、こっそりと、もっとも隠微な形で執り行われる。
殺したりはしない。じわじわと、自らが命を絶つように仕向けていく。
それだけで相手が勝手に、死んでくれるのを知っている。それをただ、待っているのだ。
*
痕跡を残したりはしない――てことは、結局証拠は何もないんだろう、って?
とこがけっして、そうはならない。
直接の物的証拠はなくたって、「状況証拠」ってものがあるからだ。
与えられた状況から論理的に考察して、有罪以外の結論は導けない――そう判断された場合には、犯行は確かにあったと推認してかまわない。
つまりはもし、本当に何も重大なことがなかったとしたら。なぜ、なんのために、劇団員は自殺したのか?
この不条理を説明するためには、いわゆる「背理法」によって、そのような事態が実際にあったと結論するしかないわけだ。
*
かつて痴漢事件の裁判で、有罪の根拠とされた論法がある。
ぎゅうぎゅう詰めの、満員電車の中の出来事だから、もちろん証拠など残っていない。だがもし行為がなかったとしたら、女性はなぜ声を上げたのか?
当時はまだ時代が古く、女性が「性」を語ることは、恥ずべきこととされた。性被害を訴えることもためらって、泣き寝入りを強いられていたのだ。
そんな世間のタブーを破ってまで、告発に踏み切ったからには、実際に余程のことがあったにちがいない――とただそれだけで、男に手錠を掛けることができたのだ。
もちろん今では、女もすっかり強くなった。
告発の心理的ハードルも、だいぶ低くなった。中には虚言で、男を冤罪に陥れた事件もあった。そうなると、もうこんな強引な判決は、通用しないように思える。
だが同じ論法を、いじめ自殺に当てはめたらどうだろう。
人は誰しも、命は惜しい。その命を自ら絶ったとすれば、余程のことがあったにちがいない。
そう考えるのは、いつの時代でも変わらない。少しも不自然な理屈ではないだろう。
そしてもしその遺書に、いじめの事実が認めてあれば、やはり加害は実際あったと推断してかまわない。
目に見える証拠なんて、一つも必要はないのだ。
もちろん今回の宝塚では、ヘアアイロン事件から自殺まで、相当の時間の間隔がある。直接の遺書があったわけではないから、司法がどう判断するかはわからない。
だが少なくとも冒頭のような、「大火傷になってないから、いじめはなかった」という、暴論は成り立たない。
「いじめ」は証拠を残さない。ただ心を殺す。
その結果被害者が自ら命を絶ったとしても、やつらは知ったこっちゃない。
むしろライバルを、一人蹴落としたんだ。願ったりかなったりだと、腹の中ではせせら笑っているのだ。――
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