かつてテレビで東日本大震災の、被災者の声を伝えていた。
その中で一つ、違和感のある表現があった。
「津波で思い出が、全部流されてしまった」
もちろん文脈から、意味はすぐにわかった。
アルバムの写真も、記念の品も、大切な人からいただいたプレゼントも。全部失われてしまった。
つまりは「思い出の品」が、流されてしまったのだ。
だが少なくとも、自分たちの世代にとっては。辞書の定義の上では。
「思い出」とは、脳の海馬の中にしまわれた記憶である。記憶に何らかの情緒がからまったときに、思い出と呼ばれる。
当然のことながら、津波に流されるような性質のものではない。
だとしたら思い出の品のことを、――記憶を想起させる事物のことを「思い出」と呼びなすのは、もちろん誤用である。
だが同時に、あまりにも現代的な示唆に、富んでいるように感じられたのだ。
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旅行をするにせよ。食事に行くにせよ。イベントを観るにせよ。
まずはスマホのカメラで、撮影することが優先される。
記憶と記録が、同時に行われるのならまだわかる。
だがそこでは記録それ自体が、――ただ記録だけが、目的と化しているように見える。
そんな彼らの心の中に、思い出は本当に、蓄積されているのだろうか。
記憶は彼らの脳内を素通りして、直接スマホのICに、預けられてはいないか?
そもそもそのとき、彼らの心の針は、ちゃんと触れているのだろうか。
味わい、感じ取り、鑑賞し。感興を正しく摘み取ることが、できているのだろうか。
ひょっとしたら人生を生きるということさえ、そこではもはや、行われていないかもしれない。
つまりは記録のデータが、「経験」と「記憶」を代替している。
どこか自分の外にある画像こそが彼らの「思い出」であり、本当の意味での「思い出」は、もうとっくに失われているのだ。
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パソコンの空き容量が少なくなれば、DVDや外付けHDDやらの、外部記憶装置にデータを移す。
ときにはひと手間省いて、外付けHDDを常時接続しておいて、初めからそちらにデータを保存する。
もちろんその場合だって、データはいったんはPCを、経由しているのだろう。
だが利用している側の印象としては、PCは一切関知せずに、直接外付けの方にぶちこまれているように錯覚される。
現代の人間に起きていることもまた、きっとそういうことなのだ。
彼ら自身は人生に関知せずに――感知せずに、ただ撮影者としして、あるいは発信者としてただ傍観している。
そうして「思い出」の画像や動画が増えることが、ついでに言えばフォロワーやら「友だち」やらが増えることが人生の収穫であり、豊かさとなるわけだ。
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自分たちの世代は、もちろんけっして、それをしない。
すべては目に焼き付けようと、心に刻もうとする。
少なくともこの自分は、これまでそのように生きてきた。――
そんな一瞬だけの感銘では、忘れてしまうだろう? その場かぎりの印象では、おおかたはこぼれ落ちてしまうだろう?
だがそれで、構わないのだ。
忘れてしまうのは、 覚えておく価値がないからだ。そうして取るに足らないものが淘汰されることで、本当に残るに値する大切な思い出だけが、永遠に心にしまわれることになるのだ。
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昨年七月に「撮影罪」なるものが、新設された。
それを受けてか、盗撮で逮捕される、不心得者が跡を絶たない。
証拠の画像が見つかってしまうので、もはや言い逃れができないのだ。
局部を見たいのなら、「覗く」だけにとどめておけば、当然撮影罪には当たらない。
迷惑行為防止条例には違反するが、通例は何の証拠も残っていないから、問題にならない。
女子トイレの個室にこもったり。女風呂の窓に首を突っ込んだり。そんな「いかにも」な間抜けなことをすれば、たちまち捕まってしまう。
だが普通に、階段で前を歩く女の「下着を見た」程度なら、偶然「下着が見えた」のと区別はつかないわけだ。
「覗く」だけにとどめておけば、まず手が後ろに回ることはない。
それが十分にわかっているくせに、撮影がやめられない。――それがあの例の、現代的なメンタリティーなのだ。
「記憶」が、脳内だけで完結しない。「記録」に委ねないかぎり、何一つ後には残らない。
そうすることが、もはや習い性となっているのだ。
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なんでもかんでも記録に残すから、証拠になってしまう。
もちろん後でじっくり楽しみたいという、気持ちはわかる(笑)
だがそれなら、その晩かぎりでデータを削除してしまえば、捕まる確率は下がるだろう。
少なくとも、常習ではないというので、量刑は軽くなる。
だが彼らには、どうしてもそれができない。一生分の膨大なデータが、見つかったりしてしまう。
所持することは危険だと知りながら、その戦利品を捨て去ることが、隠滅することができないのだ。
なぜなら? その数こそが彼らの、「心の豊かさ」だからだ。それ以外に、「生きた証し」がないからだ。――
そもそも彼らには、「心」がない。「生」すらもはや彼らの脳内では行われず、その物質的な外延に、依存するしかないのだ。……
だが自分たちは、けっしてそんなことはしない。
記録などは残さずに、すべては瞼の裏に焼き付ける。心に刻みこむ。
だから探しても、証拠は見つからない。
これまで自分は、ずっとそうしてきた(笑)
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それではいずれ、記憶が抜け落ちてしまわないか? せっかくのラッキーなパンチラが(笑)色あせてはしまわないか?
だがそれで、構わないのだ。
忘れてしまうのは、 覚えておく価値がないからだ。
むしろそうして、取るに足らないものが淘汰されることで。本当に残るに値する大切なパンチラだけが、 永遠に心にしまわれることになるのだ(笑)――
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