落ち葉ってゴミだったんだ 

 生徒に英語を教えていて、あらためて気づいたことがある。

 日本語の「落ち葉」には、2つの意味がある。
 しみじみと眺めるのは、はらはらと風に舞う落ち葉(falling leaves = 落ちつつある葉)だ。一方、箒を持って掃除をするのが、地面に散り敷く落ち葉( fallen leaves= 落ちてしまった葉)である。

 古来前者を愛でる者は多く、後者に入れ込んだりすれば、少々毛色の変わった人物とみなされる、――と生徒の英作文を添削したのだ。

     *

 だがしかし当の私は、落ち葉( fallen leaves)をこよなく愛する者である。

  朽ち果てていくものの中に、無常を見出すというような、 ステレオタイプとは違う。純粋に「美しい」と、――鬼気迫るような豊穣の美を、感じるのだ。
 確かに仔細に眺めれば、けっして単色などではない。彩りも、驚くほど多様である。
 花弁や紅葉のような鮮やかさはないが、落ち着いた匂いやかな光に照り映える、その様は逆説的に、みずみずしいとすら感じられる。

 何よりもこの夥しさは、紅葉の比ではない。
 うずたかく散り積もる葉を、一歩一歩踏みしめるとき。足もとにばりばりとしだかれて、れていくどこか生めかしいその音に、不思議な存在の手応えさえ感じるのだ。

 詩人にとっては、その一枚一枚が宝石である。
 たとえ無一文の貧乏でも 朽ち葉の豊かさに埋もれて死ねるなら本望だ、とすら思えてくるのだ。

     *

 だが昨今は、詩人には生きづらい世の中になった。
 セレナーデを奏でる恋人たちは、不審者のストーカーとして通報される。
 枯れ葉の山でも愛でようものなら、たちまち狂人扱いだ。

 落葉はもはや、賞翫の対象ではない。
 あくまでもゴミであり、街を散らかす厄介者なのだ。
 この季節には界隈のご婦人は、毎朝落ち葉掃除だ。掃いても掃いても次の日には、また道をふさぐお荷物に、ため息をつきながらご苦労な勤行を欠かさない。 

 箒で掃くだけでは飽き足らず、専用の掃除機まで登場する。
 役所から委託された業者みたいなのが、轟音を響かせて、根こそぎ落ち葉を吸いこんでいく。
  私の大切なお宝が、見るも無残に次々と、ビニールのゴミ袋に詰め込まれていく。 

 彼らの目には紅葉の名所も、文字通りゴミの山にしか映らない。
 別段高級な、情緒を解せとは言わない。だがせめて、豊かな自然に抱かれて慰謝を感じるくらいの感性は、持ち合わせてほしいものだ。

     *

 私がこんなことを言うのは、先日ちょっとした、事件があったからである。

 わが家の庭に少々背の高い木があって、その葉がときどき風に吹かれて、隣家の敷地に入り込む。
 けしからん、あの木を即刻切り倒せと、そこの主人がねじ込んで来たのだ。
 毎日掃除が追いつかない。他人の家にゴミをまき散らしておいて、公徳心がないにもほどがある、とまくし立てて息巻いている。
 何しろ近所でも、低能で有名な男である。
 まともに取り合っても議論にならないので、はあ、はあ、さよでございますか、と適当にいなしておいた。

 わが家と言えば、いつしか高層マンションだらけになってしまった町内で、ただ一軒庭つきで頑張って、緑のおすそ分けをしているのだ。
 毎年この時期になれば、ちょっと早めの、年の瀬の贈り物だ。黄金色に輝く、世にもとうとい落ち葉を差し上げている。
 ありがたく押しいただくのが人の道なのに、この鈍物はまるで親の仇のように言って、乗り込んできたのだ。

 あのときの馬鹿面が、今も瞼に焼き付いて離れない。――

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