天声人語と生成AI(2)

 (天声人語の悪口が、前回から続く)

 天声人語は駄文の見本だ。――

     * 

 それじゃあ、かく言う自分のブログは、どうなのかって?
 もちろんこれもまた、いささかの感動も与えるものではない。それはわかっている。
 だがしかし、その代わりと言っちゃあ何だが、確実に嫌悪感は与えるだろう。だとしたら、それで十分なのだ。
 嫌悪もまた、別の意味で、人の心を揺さぶるものからだ。

 このブログをもし読む者があれば、必ず吐き気をもよおす。このイカレタ野郎は、一体何をふざけたことを言っているんだと、思わず反論しようとする。それが思考の触媒となる。発火点となる。
 たちの悪いブログの、攻撃から身を守ろうと、理論武装を試みる。それでは彼自身は・・・・どう思うのかと、読み手本人の考えが組み立てられていく。
 そのようにして、論理は鍛えられる。ひいてはそこに、新たな思想を生み出すことさえ、あるのかもしれない。 

 自分の文には必ずトゲがある。毒がある。ということは、刺激があるってことだ。
 引き起こすのはたいていは反感だが、少なくとも読む者の胸の中に、感情を掻き立てている。
 無難無難に立ち回って、当たり障りのないことしか言わない、毒にも薬にもならない天声人語ごときとは、種類がちがうんだよ、種類が。

     *

 だいたいは、どうでもいいような蘊蓄から始まって。
 ちょいとこじゃれた、単語を使ってみたりして、教養をにじませる。
 「あれ?一体何の話を、しようとしているんだろう?」と、うぶな読者を不思議な気持ちにさせておいて。
 最後はお決まりの、手口で結ぶ。

 実は平和の大切さを、説いていたんです。意外でしょう? 一見無関係に見えるエピソードが、最後は見事につながったでしょう?
 この手際が見事でしょう? さすがに名人の文章は、オツなもんでしょう、と言わんばかりの自慢気な感じが鼻につく。

 いつだって結局は同工異曲、素人の目はごまかせても、見る人が見ればワンパターン、展開はいつも決まっている。
 「予想通りの意外な結末」なんてみっともないよ。ただただお笑いだ。プロの書き手がやるこっちゃあない。

 蘊蓄だってあやしいもんだ。ずいぶん教養のある、博識な人だ、なんて感心してはいけない。
 碩学のように見えたって、付け焼刃なんだよ。
 どうせ締め切り直前になって、ネットで必死こいて調べたんだろ。
 しかも自力で調べたともかぎらない。何かいいネタはないかと、周囲のスタッフかなんかに、聞いて回った挙げ句ではないの?

     *

 この間、当の朝日新聞に、生成AIについての特集が載っていた。
 「生成AI普及の問題点」を、まさに生成AI自身に質問して、解答文を作らせる。そういうシャレの利いたつもりの企画だった。
 AIがひねり出した、確か千文字くらいの解答の、全文が掲載されていた。

 中身を見て驚いたね。 
 どっかで読んだことがある文だと思ったら、なんだ天声人語そのものじゃあないか。
  分量を除けば、何もかもがそっくりなんだ。独創性のかけらもない。どこにでもころがっているような、短文のつぶやきを拾ってきては、切り貼りをして。最後には取ってつけたような、偉そうな結論をのべ伝える。
 もちろん何の情感も、うるおいもない。

 そのとき思ったね。何だあの、毎日読まされる天声人語って、AIが書いていたんだと。
 もちろん本物のAIではない。実際は生身の人間で、むかつくくらいの高給をもらっている連中なんだけど、脳みその構造はAIそのものなんだ。
 もちろん褒めているわけじゃあない。機械レベルの発想しかできない奴ら、って言ってるわけさ。
 そうさ。今でこそ生成AIが、新機軸ともてはやされているけれど、あと5年もすれば大量生産されて、ガラケーくらいの扱いしか受けなくなる。
 あの天声人語の連中の、存在価値なんて、その程度だってことさ。

     *

 要するにオレの結論は、こういうことだ。

 天声人語はAIでも書ける。オレのブログは、AIでは絶対書けない。

 もしもこれから先に、テクノロジーがもっととんでもなく進歩して、こんなブログを書くようなAIが万一現れたとしたら。
 そんな末恐ろしくも、役立たずの機械なんて、たちまちお払い箱。この世から抹殺されてしまうだろう。

 それだけは、絶対に間違いない(笑)

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