(天声人語の悪口が、前回から続く)
天声人語は駄文の見本だ。――
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それじゃあ、かく言う自分のブログは、どうなのかって?
もちろんこれもまた、いささかの感動も与えるものではない。それはわかっている。
だがしかし、その代わりと言っちゃあ何だが、確実に嫌悪感は与えるだろう。だとしたら、それで十分なのだ。
嫌悪もまた、別の意味で、人の心を揺さぶるものからだ。
このブログをもし読む者があれば、必ず吐き気をもよおす。このイカレタ野郎は、一体何をふざけたことを言っているんだと、思わず反論しようとする。それが思考の触媒となる。発火点となる。
たちの悪いブログの、攻撃から身を守ろうと、理論武装を試みる。それでは彼自身はどう思うのかと、読み手本人の考えが組み立てられていく。
そのようにして、論理は鍛えられる。ひいてはそこに、新たな思想を生み出すことさえ、あるのかもしれない。
自分の文には必ずトゲがある。毒がある。ということは、刺激があるってことだ。
引き起こすのはたいていは反感だが、少なくとも読む者の胸の中に、感情を掻き立てている。
無難無難に立ち回って、当たり障りのないことしか言わない、毒にも薬にもならない天声人語ごときとは、種類がちがうんだよ、種類が。
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だいたいは、どうでもいいような蘊蓄から始まって。
ちょいとこじゃれた、単語を使ってみたりして、教養をにじませる。
「あれ?一体何の話を、しようとしているんだろう?」と、うぶな読者を不思議な気持ちにさせておいて。
最後はお決まりの、手口で結ぶ。
実は平和の大切さを、説いていたんです。意外でしょう? 一見無関係に見えるエピソードが、最後は見事につながったでしょう?
この手際が見事でしょう? さすがに名人の文章は、オツなもんでしょう、と言わんばかりの自慢気な感じが鼻につく。
いつだって結局は同工異曲、素人の目はごまかせても、見る人が見ればワンパターン、展開はいつも決まっている。
「予想通りの意外な結末」なんてみっともないよ。ただただお笑いだ。プロの書き手がやるこっちゃあない。
蘊蓄だってあやしいもんだ。ずいぶん教養のある、博識な人だ、なんて感心してはいけない。
碩学のように見えたって、付け焼刃なんだよ。
どうせ締め切り直前になって、ネットで必死こいて調べたんだろ。
しかも自力で調べたともかぎらない。何かいいネタはないかと、周囲のスタッフかなんかに、聞いて回った挙げ句ではないの?
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この間、当の朝日新聞に、生成AIについての特集が載っていた。
「生成AI普及の問題点」を、まさに生成AI自身に質問して、解答文を作らせる。そういうシャレの利いたつもりの企画だった。
AIがひねり出した、確か千文字くらいの解答の、全文が掲載されていた。
中身を見て驚いたね。
どっかで読んだことがある文だと思ったら、なんだ天声人語そのものじゃあないか。
分量を除けば、何もかもがそっくりなんだ。独創性のかけらもない。どこにでもころがっているような、短文のつぶやきを拾ってきては、切り貼りをして。最後には取ってつけたような、偉そうな結論をのべ伝える。
もちろん何の情感も、うるおいもない。
そのとき思ったね。何だあの、毎日読まされる天声人語って、AIが書いていたんだと。
もちろん本物のAIではない。実際は生身の人間で、むかつくくらいの高給をもらっている連中なんだけど、脳みその構造はAIそのものなんだ。
もちろん褒めているわけじゃあない。機械レベルの発想しかできない奴ら、って言ってるわけさ。
そうさ。今でこそ生成AIが、新機軸ともてはやされているけれど、あと5年もすれば大量生産されて、ガラケーくらいの扱いしか受けなくなる。
あの天声人語の連中の、存在価値なんて、その程度だってことさ。
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要するにオレの結論は、こういうことだ。
天声人語はAIでも書ける。オレのブログは、AIでは絶対書けない。
もしもこれから先に、テクノロジーがもっととんでもなく進歩して、こんなブログを書くようなAIが万一現れたとしたら。
そんな末恐ろしくも、役立たずの機械なんて、たちまちお払い箱。この世から抹殺されてしまうだろう。
それだけは、絶対に間違いない(笑)
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