毎年この時期になると、東京大空襲の記憶を伝える記事が載る。
それとともに、被災者への補償を求める声が上がる。
もちろん戦災の悲惨さを、語り継ぐことは大切なことだ。
高齢の被災者たちや、その遺族たちの悲痛な叫びには、胸が痛む。
だがそれとこれとは、別のことだ。
賠償に関する彼らの主張は、道理に合わないと思う。
国家の政策の過ちに対して。そのもたらした惨禍に対して、国民が補償を要求することはできない。――
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なぜなら。
国家とは国民そのもののあり方であり、国民というものと、まさに同一・一体の存在だからだ。
議会制民主主義のもとでは、この本質はきわめて明快に見て取れる。
政治家はみな、国民が選挙で選んだ人物だから、その失敗は同時に彼らを望んだ国民の責任でもあるわけだ。
自分は野党に投票したのだから、責任はない。あくまでも被害者なのだ、という理屈もあながち成り立たないわけではない。
だが幸い、そう言い張る厚顔無恥は、実際にはめったに現れない。
選挙が機能しない専制国家においても、実はその本質は、いささかも変わらない。
もし国の運営が意に染まなければ、反対の声を上げることはできた。
たとえ狼虎のごとき暴君を、戴いていたとしても。
革命に起てば、国体をひっくり返すこともできる。ゼネストに打って出れば、いかなる指導者も耳を貸さざるをえない。
自分一人では無力で、何もすることはできなかった? だがそれも違う。
乱暴な言い方かもしれないが、もしその気になれば、「死の抗議」くらいはできたはずだ。
それをしなかったということは。
結局はあの体制のもとで、のうのうと生きたということは。
あなたはまぎれもなく、それを「選んで」いたのだ。
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勘違いしてはいけいない。
先の戦争における中国侵略も、日米開戦も、けっして政治家の専横ではない。
あるいは軍部の暴走でもない。国民全体が熱狂的に望み、支持した政策だった。
少なくとも開戦当初、日本が勝ち続けているうちは――中国人の首を撥ね、娘を犯し続けているうちは。
戦争万歳と叫びながら、提灯行列に繰り出していた。(注)誰も反対なんて言わなかった。
もちろん敗色濃厚となったのちは、厭戦気分が広がったかもしれない。
だがしかし、旗色が悪くなったから反戦だ、自分は被害者だ、と言うのはあまりにも虫がよすぎる。
否。たとえ百歩譲って、それもまた反戦だとしても。
それでも、命を賭して否を叫ばなかった以上、少なくとも理屈の上では――実際的には、国民がそれを選んでいたのだ。
米軍の空襲による惨禍も、自らが望んだ、少なくとも認容した政策の帰結だった。
だとしたら、自らがもたらしたにちがいない事態に、自らが補償を求めるというのは、いかにも理屈にあわない。
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軍人の被災には補償がなされたのに、民間人にそれがないのは不当だ、という主張がある。
だがそれも、違うと思う。
軍人とは、国家と雇用関係にある者だ。
雇用契約の中に、労働災害への補償が含まれているのは、当たり前のことだ。
だが民間人には、もちろんそんなものはない。
軍人は国家のために、文字通り命を賭して戦う者だ。
民間人も多く命を落としたが、それはあくまで悲運の犠牲だ。命を捧げて、国のために尽くしたというのとは違う。
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そもそも戦災というなら、空襲の場合にかぎらない。
国民全体が多かれ少なかれ、辛苦をなめた敗戦の犠牲者だった。
戦争の責任は国が取れと言い出したら、国民の全体に補償金を払わなければならない。
もちろんそうしろというのなら、それでもかまわない。
だが補償金の原資は、もちろん国民の税金である。
国民全体の税金を、そのまま国民全体に支払うことに、一体いかほどの意味があるのだろう?
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ずいぶん酷なことを言う。血も涙もないやつだ、と思われるかもしれない。
だがおそらくは、それが真実だった。私たちはけっして、そのことに目を覆ってはならない。
空襲の惨禍は、あくまでも「悲運」であって、「被害」ではない。
そのことで誰かを恨むことも、難ずることも当たらない。
ちょうど大震災の被災者が、「被害者」ではないのと同じように。
少なくとも「加害者」の対語としての、被害者ではないように
それもまた誰かの――何かの責任を問うというような、筋合いのものではないのである。
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