大空襲被災者は救済すべきか 

 毎年この時期になると、東京大空襲の記憶を伝える記事が載る。
 それとともに、被災者への補償を求める声が上がる。

 もちろん戦災の悲惨さを、語り継ぐことは大切なことだ。
 高齢の被災者たちや、その遺族たちの悲痛な叫びには、胸が痛む。

 だがそれとこれとは、別のことだ。
 賠償に関する彼らの主張は、道理に合わないと思う。
 国家の政策の過ちに対して。そのもたらした惨禍に対して、国民が補償を要求することはできない。――

     *

 なぜなら。
 国家とは国民そのもののあり方であり、国民というものと、まさに同一・一体の存在だからだ。

 議会制民主主義のもとでは、この本質はきわめて明快に見て取れる。
 政治家はみな、国民が選挙で選んだ人物だから、その失敗は同時に彼らを望んだ国民の責任でもあるわけだ。
 自分は野党に投票したのだから、責任はない。あくまでも被害者なのだ、という理屈もあながち成り立たないわけではない。
 だが幸い、そう言い張る厚顔無恥は、実際にはめったに現れない。

 選挙が機能しない専制国家においても、実はその本質は、いささかも変わらない。  
 もし国の運営が意に染まなければ、反対の声を上げることはできた。
 たとえ狼虎のごとき暴君を、戴いていたとしても。
 革命に起てば、国体をひっくり返すこともできる。ゼネストに打って出れば、いかなる指導者も耳を貸さざるをえない。
 
 自分一人では無力で、何もすることはできなかった? だがそれも違う。
 乱暴な言い方かもしれないが、もしその気になれば、「死の抗議」くらいはできたはずだ。
 それをしなかったということは。
 結局はあの体制のもとで、のうのうと生きたということは。
 あなたはまぎれもなく、それを「選んで」いたのだ。

     *

 勘違いしてはいけいない。
 先の戦争における中国侵略も、日米開戦も、けっして政治家の専横ではない。
 あるいは軍部の暴走でもない。国民全体が熱狂的に望み、支持した政策だった。

 少なくとも開戦当初、日本が勝ち続けているうちは――中国人の首を撥ね、娘を犯し続けているうちは。 
 戦争万歳と叫びながら、提灯行列に繰り出していた。(注)誰も反対なんて言わなかった。
 もちろん敗色濃厚となったのちは、厭戦気分が広がったかもしれない。
 だがしかし、旗色が悪くなったから反戦だ、自分は被害者だ、と言うのはあまりにも虫がよすぎる。

 否。たとえ百歩譲って、それもまた反戦だとしても。
 それでも、命を賭して否を叫ばなかった以上、少なくとも理屈の上では――実際的には、国民がそれを選んでいたのだ。

 米軍の空襲による惨禍も、自らが望んだ、少なくとも認容した政策の帰結だった。
 だとしたら、自らがもたらしたにちがいない事態に、自らが補償を求めるというのは、いかにも理屈にあわない。

     *

 軍人の被災には補償がなされたのに、民間人にそれがないのは不当だ、という主張がある。
 だがそれも、違うと思う。

 軍人とは、国家と雇用関係にある者だ。
 雇用契約の中に、労働災害への補償が含まれているのは、当たり前のことだ。
 だが民間人には、もちろんそんなものはない。

 軍人は国家のために、文字通り命を賭して戦う者だ。
 民間人も多く命を落としたが、それはあくまで悲運の犠牲だ。命を捧げて、国のために尽くしたというのとは違う。

     * 

 そもそも戦災というなら、空襲の場合にかぎらない。

 国民全体が多かれ少なかれ、辛苦をなめた敗戦の犠牲者だった。
 戦争の責任は国が取れと言い出したら、国民の全体に補償金を払わなければならない。

 もちろんそうしろというのなら、それでもかまわない。
 だが補償金の原資は、もちろん国民の税金である。
 国民全体の税金を、そのまま国民全体に支払うことに、一体いかほどの意味があるのだろう?

     * 

 ずいぶん酷なことを言う。血も涙もないやつだ、と思われるかもしれない。
 だがおそらくは、それが真実だった。私たちはけっして、そのことに目を覆ってはならない。

 空襲の惨禍は、あくまでも「悲運」であって、「被害」ではない。
 そのことで誰かを恨むことも、難ずることも当たらない。

 ちょうど大震災の被災者が、「被害者」ではないのと同じように。
 少なくとも「加害者」の対語としての、被害者ではないように
 それもまた誰かの――何かの責任を問うというような、筋合いのものではないのである。

コメント

タイトルとURLをコピーしました