「責任能力」って何?
「責任能力がないから死刑にしない」じゃなくて、責任能力がないようなやつらだからこそ、死刑にすべきなんじゃあないの?
人を殺せば死刑だけど、遺体の骨をたべちゃえば、精神鑑定で放免となる(注)。それっておかしくない?
少なくともそういう連中は、世間に出すべきじゃあない。
どこかの病院の、檻の中にでも閉じ込めておけばいい。
病院を出すのなら、その出した時点で、責任能力があると見されるべきなのだ。……
――これは私の知人の発言である。もちろんかなりの暴論だが、一応紹介する価値はあると思うのだが、いかがなものか。
*
知人はまた、こんな戯文も作っていた。
人権と 刃物を持った方々がやって来る
くれぐれも 気をつけよう
なるべく近づないように した方が無難です彼らには 何やら錦の御旗があって
何をされても監獄に 送ることはできませんから
これもまた、世間様をいいようにおちょくった、不謹慎きわまりないおふざけである。
普通なら炎上必至のところだが、どうせ誰も読まないブログだから、まあどうでもいいやと、そのまま採録してみました。――
*
一体刑罰とは、何のためにあるのか。なぜ存在すべきなのか。――その目的については、さまざまな見解がある。応報説。教育刑論。……その中でももっとも主流をなすものは、刑罰の持つ抑止効果を、重視する理論だろう。
私には、殺してやりたい奴がいる。
だがもし殺してしまったら、自分の方も死刑になってしまう。だから思いとどまっている。
それはもちろん、私一人だけではないだろう。みんなが同じように考えるから、もしも死刑がなかったら、世の中は殺人だらけに――殺しあいだらけに、なってしまうにちがいない。
つまり刑罰があることによって、犯罪が抑止される。秩序が守られる、という考え方だ。
刑罰をちらつかせながら、法が睨みをきかすことで、社会の安定が保たれる。
自然世界を物理学の法則が統べるように、法理が人間世界を統べて、悪党どもの手足を縛る。
それは禁止の形を取ってはいても、けっして自由の敵ではない。裏を返せば、違反さえなければ何をやってもいいわけだから、安全ばかりか逆説的に自由をも保証する、すばらしいシステムなのだ。
もちろん威嚇の効果を保つためには、抜け道はあってはならない。
例外がありすぎると、何だけっこうダイジョブじゃないか。これならオレも、何とかうまくごまかせそうだ、と思わせてしまう。
それでは法の威厳は、みるみる失われてしまう。
だとしたらそれは、ときには非情なまでに、冷厳でなくてはならぬ。
それもまた、物理の法則が例外なく、万物の動きを統べるように。――
*
法は非情なまでに、冷厳でなくてはならぬ。――
だが実際には、そこには例外が、けっこうたくさん設けられている。
その最たるものが、あの「責任能力のない場合」である。
一体それは、いかなる理屈なのか?
それはつまりは、こういうことだ。
悪いと知りながら何かをやったなら、それは悪人であり、当然非難に値する。
だがそれを悪いと分別するだけの、知的能力を欠いていたとしたら、一体どうなのか?
やりたくてやったわけではない。自らの意思で行ったかどうかさえ、定かではないとしたら?
思わずやってしまったとしたら? それは不可抗力であり、偶然の事故のようなものてはないのか。
彼は事故の加害者でありながら、同時に被害者でもある。少なくともその病の、被害者であることは間違えない。
だとしたら彼は、あくまで憐憫と治療の対象だ。刑罰の対象ではない、というのがその考え方だろう。
車を使って、人を轢き殺したら有罪だ。だが道路がすべって、当ててしまったというのなら、それは不可抗力の事故なのだ。
そこには、いささかの殺意もない。悪気はない。そもそも故意ではないわけだから、むしろ運転手もその道路事情の、かわいそうな被害者にすぎないのだ。
彼の場合も、それと同じなのだ。頭の中ははてなマークで一杯なわけだから、もちろん悪気などなかった。
刑をもって威嚇したって、理解する能力がないのだから、抑止効果もない。制裁を加えたって、事後の教育効果もない。
だとしたら必要なのは、監獄ではなく病院だ、ということになるわけだ。
あるいは、子供の場合がそうだ。
アメリカでよくある事件だが、あの国は銃社会だから、普通に家の中に本物の銃が置いてある。
幼稚園児くらいの子供が、それをおもちゃにしていじっているうちに、引き金を引いてしまう。それが誰かに当たって、死んでしまう。
これは殺人なのか? このいとけない天使を、死刑台に送るべきなのか。そんなはずはないだろう。
もちろんここには、殺意も故意もない。誰のせいでもない。すべては物のはずみであり、ただの事故なのだ。
法の適用を優先するあまり、――ただ法のメンツを保つためだけに、牢獄に囚われるとしたら、それはその子供にとって、あまりにも不条理な悲劇だろう。
だとしたらそれは、本当の子供の場合だけではない。
図体は立派な大人であっても、知能年齢が幼児であれば、同じことではないのか。
責任能力のない彼らを。理非の判断のできない、無邪気な魂を。
うーうー唸っているだけの「天使」を、罪に問うことなどできない。――というのが、その理屈なのだ。
*
だかしかし、知人はこう考えるのだ。
確かに幼な子が監獄に囚われるとしたら、それはあまりにも、不条理な仕打ちだろう。だの偶然の事故にすぎないもので、そんな取り返しのつかないような目には、とてもあわせるわけにはいかない。
だがちょっと待てよ。
それでは実際に銃で打たれた、相手の方はどうなるんだ?
彼こそ不条理な運命のいたずらで、命を落としたんだ。言葉の綾ではない、本当の事故の被害者だった。
そしてもし被害者が、そんな理不尽に見舞われたとしたら。その加害者の幼な子が、同じように道理に合わぬ悲劇に見舞われたとしても、いかほどの問題があるのだろうか? きわめてつり合いの取れた、公正な措置じゃあないか。
いや百歩譲って、子供は免責とするとしよう。
子供の場合は、年齢の客観的な数字があるから、比較的線引きがしやすい。
だがあの責任能力の方々は、鑑定が難しい。誤診もあれば、詐病もある。
そのうえあの「天使ども」は、見た目はちっとも可愛くない。体力だって凶暴だ。刃物や火を操る、悪知恵だけは持っている。
どうやら耳もいいらしく、いろいろにな幻聴も聞こえてしまう。(注)
連中を「てるてる坊主」にしたとしても、別に大して違和感はない。
そのようにして、法の神聖が保たれる。絶対性が担保される。
網の目に、ほころびがないことが示される。
万物をつかさどる物理の法則のように、裁きと報いと天誅が、遺漏なく分配される。
あんないたいけな子供でさえ、免れることができないと知れば、周囲をびびらせることができる。二度と刃物を、手にする者もいなくなる。
当人たちには何の効き目もないとしても、世の中の全体で考えれば、十二分な抑止効果がある。
それじゃあ見せしめじゃないか、と異論を唱える者がいる。だがそれの、どこがいけないの?
見せしめこそが、刑罰の本旨だし、そうであるべきだと思う。
だとしたら子供たちも、運転手も、あの例の方々も。少なくとも一度は、監獄に送り込む。
それで全然、構いはしないのだ。
*
これが知人の、主張なのだ。
何という無理無体な、いびつな邪見だろう。
聞く者があれば、必ず眉をひそめる。吐き気をもよおす。危険な人物がいると、たちまち通報されてしまう。
旧知の仲の自分でさえ、とうてい聞くには堪えない。
この男だって若いころは、もっとずっとまともだった。結構心のやさしい、いい男だった。
人生いろいろありすぎて、すっかり人が変わってしまった。ちょっとばかり、気が変になってしまったんだ。
頭がすっかり、イカれてしまった。
てことは責任能力がないわけだから、あんまり厳しく責めないでほしい。
どうかみなさん、このかわいそうな知人のことを、これからもあたたかく見守ってあげてください。――
コメント