サナダムシについての哲学的感興

 前回の附記です。

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 成体は大きいものでは10メートルにもなる、グロテスクなモンスター。――

 だがしかし、だとしたらふと、こんな疑問が浮かばずにはいない。

 もしそんな長大な存在が、そこにあるとしたら。やはりそれは、もはや人間と同等の重みを――意味を担わざるをえない。
 はたして本当に、私の内部に、サナダムシが巣食っているのか。
 それともサナダムシの外部に、それを取り囲むように、私が棲息しているだけなのか。
 どちらの存在が主で、どちらか従なのか。

 私たちはただ、サナダムシのかぶった殻のようなものに、すぎないのかもしれない。――
 どうしてもそんな、不思議な哲学的感興に、とらわれざるをえないのだ。

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 哲学つながりで言うと、こんな論法はご存じだろうか。
 いわく、
――腸の「中」は、体の「外」である。

 けっして、詭弁ではない。
 私たちの消化管は、口から肛門に抜ける、空洞でしかない。いわばちくわの穴の中の、空間と同じである。
 ではちくわの、あの筒状の空間は、一体ちくわの内部なのか。それとも外部なのか?

 ちくわの表面は、もちろんちくわの外部である。
 ではその表面から、一筆書きで筆を走らせてごらん。
 筆はいつのまにか、穴の間の空間に入り込み、またごく当たり前に表側に抜け出てくる。
 筆は一度も外皮を、突き破ることはない。つまりはずっと、ちくわの外部をなぞっていただけで、 その内部にもぐりこんではいないわけだ。

 ちくわはけっして、円柱状の物体なわけではない。もしそう見えているとしたら、それはそのアウトライン(輪郭)に、だまされているだけなのだ。
 それは複雑に折れ曲がりながら、円筒の空洞を包み込んだ、実に奇妙な形状の物体だ。だとしたらそこに抱擁されたうつろな空間は、ちくわそのものではなく、ちくわの「外」であるにほかならない。(注)

 そしてもし、ちくわがそうだとしたら、私たちの腸の「中」もまた同じだった。
 私たちの体の「内部」であると思えたもの。それはその実私たちの外部――部屋や野原や、空や宇宙と一連なりの、筒抜けの通路にすぎないのだ。

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 まあ、どうでもいいことだが、個人的にはこういう知的遊戯が好きである。

 実際こうして頭の体操をしておくと、後々の論破に役立つ事が多い。

 脳みそをしっかり鍛えておかないと、戦いにはなかなか勝てない。たとえそれが、ただ口先だけの――揚げ足取りの論争だとしてもね(笑)

  (注:ついでに言うなら、「トポロジー」という用語も、なんとなく勉強してくといいかもです)。

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