私たちはみな、同じ一つの世界に住むと、誰もが考えている。
だがしかし、本当は、それはそうではない。
あなたの住む世界と、私の住む世界は違う。共通に見えてはいても、住んでいる部分が――見えている部分が違うのだ。ましてや遠い異国の、見知らぬ民族同士であれば、それこそすべては、別世界と言ってもおかしくない。
たとえ同じものを見ていても、見え方が違う。
晴れ上がる秋の空を、遠足の子供は祝福と感じるが、雨ごいの農夫には悪夢としか映らない。
だとしたら二つの世界は、やはり別の何かなのだ。
ましてや一人一人の内側に蓄積した、経験と記憶は、互いに似ても似つかない。
もしそれらもまた、世界を構成する要素だとすれば。
確かにそこには無数の違った世界が、同じ一つの時空に、折り重なるように存在しているのだ。
*
だとしたら、一人一人の人間は、 それぞれの別の世界を生きている。
自分だけの特別な世界を、割り当てられ、担っている。
割り当てられ、担っている? 否。彼自身が日々、世界を創っている。その世界をつかさどる王であり、万象の淵源なのだ。
そのどの一つとして、同じものはない。すべてがあまりにも、かけがえのない何かだった。
一人一人の個性が大切です、などと、できそこないの教育者が言う。
だがそんな、なまやさしいものとは違う。
人はそれぞれがすなわち、一個の世界であり、宇宙なのだ。
私たちは、私たちだけのこの世界を創る、主だった。
だとしたら主を失えば、もちろん世界は、たちまち瓦解してしまう。
「死」は私たちの担った一つの世界の、――宇宙の終わりでもあるのだ。
そのとき失われるのは、ただの生命の機能ではない。
まるごと一つの宇宙が、彼が創りながら生きてきた、世界の全体が終焉し、滅び去るのだ。
そんなことは、そんな惨事はもちろん、けっしてあってはならない。――だからこそきっと、人の命はあれほどまでに、かけがえがなく感じられるのだ
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かつて父の葬儀で、私もまた骨を拾った。
火葬炉の中に見えたものは、残骸だった。
それはもちろん、ただ燃え残った父の肉体の、残骸だったにちがいない。
だが私の目には、何だかそれは焼け落ちた神殿の、瓦礫のようにも見えた。
彼の生きた、彼だけの世界が、今やまるまる全部崩れ去り。そうして破片となって、焦土に散っていたのだ。――
もちろん次は、自分の番だ。
自分もやがて、いつか最期を迎え、同じように火葬場の炎に焼かれるだろう。
それが浄火なのか、業火なのかは知らない。
だがそのとき、まちがえなく、私の世界は終わるのだ。
私の亡きあとにも、やはりこの世界は相変わらず、存在を続けるのか。私にはもう、確かめるすべはない。
だがたとえそれが在ったとしても、それはもはや、私がいつも見付けた世界とは違う。ただ無数の世界もどきが、そこにあり続けるだけだ。
だとしたら、だとしたら確かに、そのとき「世界は滅びる」のにちがいない。――
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