元始、男性は太陽であった

 元始、男性は太陽であった。/今、男性は大泉洋である。

     *

 自分くらいの世代までは、他に呼び名がないために「男らしさ」と呼ばれていたものに、あこがれた。

 安逸に背を向けて、遠い海に船出する。 熱い思いを、追いかける。かぎりなく撃ち続ける。
 ムキムキの筋肉と、胸毛すね毛をむき出しにして、力まかせに生きている。
 まぱゆい栄光に目を射られて、足元を見失う。いつでも苦虫を嚙みつぶしたような、渋面を作っている。

 幸せよりは、我慢が似合う。みんながいつも、うさぎ跳びだった。男であることは、そんな無意味な苦行でもあった。――
 それでもそんな生き方が、時代の理想だった。同性だけじゃなく女性も、雄々しさに胸を焦がした。
 元始、男性は太陽であったのである。

     *

 今、男性は大泉洋である。
 日本映画を観ようとすると、たいていこの人が出ずっぱりだ。
 演技がどうこうというよりも、その存在そのものが、現代いまの日本の男性の代表と、――象徴と思われているのだろう。
 マッチョからはほど遠い、ひょろ長の体型で。
 シリアスな演技は、全然似合わない。どこか情けない雰囲気が、あたりを和ませる。ちょっととぼけた高めの声で、ひょうひょうと、軽妙な演技をする。
 そりゃあ映画じゃあ、引っ張りだこだろう。
 何しろ現在では、すべてがあんな感じなのだ。男だけじゃなく女も、世の中のありとあらゆるものが。

 今では時代そのものが、去勢されてしまった。
 やさしさだけが、キーワードとなり。孤高なやつなんて、聞いたこともない。お手々つないで フォークダンスで、キズナ、キズナとわめいている。
 男らしさなんてもう、とっくに死語になった。それどころか、今じゃあ差別用語なんだそうだ。そんなものは骨董屋で二束三文で叩き売られる、大時代なヤカンと変わらない。
 ニホンオオカミと同じ、絶滅種だ。
 元気な女のうしろに、金魚のふんみたいについて歩く。お金は払う、運転手はつとめる。それが今の男の役割だ。

 亭主関白は、ドメスティックバイオレンスだ。
 ひげもじゃの海賊なんて、漫画の中にしか出てこない。今では全然はやらない、ただの道化でしかない。
 気持ち悪い、ちゃんと剃ってきてよとカノジョに言われて、あわてて脱毛に行く。はんぺんかナメクジが服を着たような、ツルツルの体になる
 肩肘張って生きているやつなんて、どこにも見当たらない。これもホモサピエンスの進化なんでしょうか、誰もがすっかり角が取れて、丸くなっている。

     *

 そんな今のあり方に――大泉洋に、異を唱えるつもりは毛頭ない。 
 昔はよかったなんて、ちっとも思わない。あんな時代は本当は、もう二度とこりごりだ。

 それでもどこか一抹のなつかしさと、哀愁が拭えない。
 なぜだかどうしても、慨嘆を禁じ得ない。――

 そうなのだ。過剰なまでにあふれ出る、男性ホルモンに自家中毒を起こし。枯れてもなお見果てぬ夢の、幻影がつきまとう。
 失くしたもののフラッシュバックに、何度も夜中に、ガバッと目が覚める。
 男らしさの後遺症にさいなまれる、哀しきパンチドランカー。このくたぱりぞこないの老人を、誰か今すぐに、そっと絞め殺してくれる者はないか? 

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