邪馬台国は、一体どこにあったのか。
その議論は専門家だけではない、しろうとの古代史マニアのロマンをも、大いに掻き立てている。
だがしかし――
*
「邪馬台国」が、現在我々の思い描く「日本」と重なる国で、卑弥呼がそこを統治する強大な女王であった――
もしそうイメージしているなら、大きな誤解である。
事実関係を整理しておこう。
① 2世紀末の日本には、30余りの国が乱立していた。邪馬台国はその中の一つであった。
② 国々はすべてほぼ同等の勢力を持ち、それゆえに覇権を求めて互いに争い、戦が絶えなかった。
③ 和平の交渉が行われ、邪馬台国の卑弥呼を「共立」した――つまり倭国連合の仮の盟主として戴くことで、戦乱を収めたのだ。
*
邪馬台国は倭国連合を構成する、あまたの小国の一つにすぎなかった。別にそこに、都があったわけでもない。
その卑弥呼が盟主となったのは、別に国力で制覇したからではない。
和平のための話し合いで、たまたま推戴されたにすぎない。
たまたま選ばれただけだとすれば、別に卑弥呼でなくてもよかった。
別の国の、別の王でもよかったのだ。
そしてもしそうだとしたら、どこでもよかったとすれば、その所在を議論することに一体いかほどの意味があるのだろう。
畿内にも九州にも、――それを言うなら日本のあちらこちらに、同等の力を持つ国が並び立っていた。
それは同等なだけではない。ひょっとしたら同質ですら、あったかもしれない。
そしてもし、そうして「合同な」小国が無数に散らばっていたとしたら?
邪馬台国がその中の、「ワン・オブ・ゼム」にすぎなかったとしたら?
サッカー部の部活の、キャプテンを決める。
サッカーの技量が、みんな似たり寄ったりだとすれば、くじ引きで決まることもあるだろう。
そんなとき後世の歴史家は、キャプテンがどこに住む誰であったか、あるいはその成績や人柄や容姿を、ことさら議論したりするものなのだろうか?
*
邪馬台国が倭国連合の盟主に推されたのは、その力ゆえではない。
むしろその逆である。
その国の卑弥呼なる女が、政治・軍事的に非力な存在であったことが、飾り物として戴くには都合がよかったのだ。
腕自慢の男どもが寄り集まれば、誰を頭に就くべきか、必ず紛糾することになる。
誰かが選ばれれば、角が立つ。何で俺があいつの下なんだ、と不満を抱く。
選ばれた者の方はまた、その地位を我が物としようとするだろう。
だがその代わりに女を立てておけば、不思議と丸く収まる。
そのたおやかな特性が、統合の象徴としての役割を、見事にはたしてくれるのだ。
実力者たる男どもが、誰も上に立たない。
卑弥呼という看板を立てておいて、そのもとで互いに牽制しあい、自制しあう。
そうすることで絶妙な力の均衡が、実現したのだ。
看板が意に染まなければ、また協議して、首をすげかえればいい。
卑弥呼が子を持たぬ独身女であったことが、このシステムを容易にした。
世継ぎがいなければ、世襲に執着して、権力にしがみつくようなこともなかったからである。
そしてもし卑弥呼がそのような存在・人物であったとしたら、
看板であり、飾り物であり、 統合の象徴にすぎないとしたら。
歴史にそんな人物がいたと、言うだけで足りる。どこにその居城があったかなどは、もはやさして重要な議論ではないだろう。――
(話は次回に続く)
コメント