『山寺の和尚さん』という童謡(手毬歌)がある。自分が覚えているものは、これである。
山寺の和尚さんが
毬(まり)は突きたし 毬はなし
猫をかん袋に 押し込んで
ポンと突きゃ ニャンとなく
ニャンがニャンとなく ヨイヨイ
唄われる地域によって、歌詞には差異がある。
二行目の「毬は突きたし」は、レコード版では「毬は蹴りたし」となっているので、こちらで記憶している方も多いだろう。
「毬がお好きで」とするバージョンもあるが、自分は断然「突きたし」派である。
手毬歌なんだから、毬は「突く」だろう。貴族じゃあるまいし、蹴鞠なんてするわけない、というのももちろんある。
だがそれ以上に、絶対に譲れない理由がある。
なぜなら歌詞には、裏に隠された意味がある。
この歌は元来、獣姦の歌だったからである。
*
山寺の和尚さんは、どうしようもなく生臭坊主であった。
ちっとも悟りなんか開いていない。
女とヤリたくてしかたがない。
女陰(仏教用語では「にょいん」と発音する)を魔羅(これも仏教用語で陰茎のこと)で、「突き」たくてたまらないのだ。
さすがにそのままの内容を、歌にするわけにはいかないので、女陰を毬に寓して「毬は突きたし」とした。一種の隠喩であり、掛け言葉を用いた、言葉遊びである。
さびしい山の中の寺だから、もともと女性(にょしょう)はいない。そのうえ女人禁制だから、女っ気などあるはずもない。
「毬は突きたし毬はなし」だ。
そこでどうしたかと言うと(笑)――
ふと見ると、寺には飼い猫がいた。
メス猫だったのである。
*
生臭坊主の頭に、トンデもない悪知恵が浮かんだ。
メス猫をかん袋(「紙袋」の転訛)に頭から押し込めば、下肢が袋の口の方に来る。即席のダッチワイフが出来上がるわけだ。
その露出した股間に――もうおわかりだろう。あとの説明は、もうご勘弁願いたい。
要するに猫にとっては、よにもおそろしい事態が始まったのだ。
当然のことながら、不同意性交である。坊主の一突きごとに、猫がこの世のものならぬ悲鳴を上げる。
*
「 ポンと突きゃ ニャンとなく」――
と、まあこういうわけだ。
ホンマカイナ。――
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