ガーシーの殺害を議決する

 ガーシーは言う。
 国会に出席しないというのは、私の選挙公約だ。その公約で当選したのだから、出席する必要はない。

 杉田水脈は言った。
 私の主義主張に、共鳴してくれる人がいる。彼らの負託を受けて当選したのだから、私は自分の主張を曲げない。

 彼らのこの、一見もっともらしい屁理屈を、論難するにはどうしたらいいか?

     *

 ここで一つの、論破のテクニックを伝授しよう。
 「もっとも極端な事例を想定してみる」という、思考法である。

 日常の、普通の事例の場合、あまりにも雑多な要素が絡み合っていて、純粋な論理の骨組みが見えてこない。
 そんな不純物を排除するためにも、できるかぎり非日常的な、ときには不条理なまでにぶっ飛んだ状況を例に取ってみるのだ。  

 たとえば今、民主主義のプロセスが、論争のテーマになっているとしよう。
 そんなときにも、もっとも突拍子もないモデルを持ち出してきて、議論を吹っ掛けるのだ。
 ちょぅどこんな具合に。

 仮に――あくまでも仮にだが、国民の8割の多数派が、残りの2割の少数派の抹殺を、議決したとする。
 その場合本当に、少数派をギロチンに掛けることができるのか? 多数決で決めたことだから、それは正当な行為なのか?
 もちろん答えは、否である。
 数の多寡による力学とは別のところで、何が正義であるか、何が真実であるかが議論され、追及されなければならない。……

 こんなふうに、奇想天外な事例を想定したことで、普段なら見逃していた、多数決原理のあやうさが見えてきた。
 もちろんそんなキテレツな事態は、実際には絶対に、起こりうることではない。
 だかしかしこの極論の、思考実験によって得られた結論は、その実すべての一般的な状況にも、当てはめうるものなのだ。

     *

 こんな手口を用いることで、私たちはしばしば容易に、論理の矛盾を発見する。あるいはその逆に、論理の正当性を、確認することもできる。

「国民の負託」についても、話は同じである。
 国民の負託を受けてさえいれば、何を言ってもいいのか。何をしてもいいのか。
 もちろん答えは、否である。

 極端な事例を考えてみよう。
 ある人物が「ガーシーの抹殺」を、あるいは「杉田水脈の抹殺」を主張し、それを公約として選挙に立候補したとする。
 当然のことながら、たちまちトップ当選である(笑)
 さて、そうして国民の負託を受けた議員は、国会で抹殺を主張できるのだろうか?
 さらにもし、そんな議員が一人ではなく、465名(=衆議院議員総数)そろったとしたら、殺害を実行できるのだろうか?

     *

 さあガーシーさん、私の思いついたこの愉快な小理屈に、あなたの知能はちゃあんと反論することができますか?(笑)

(注)
 民法に、「公序良俗に反する契約は無効」という、原則があります。

 たとえば100万円をもらって、ある人を殺す請負契約を結んだとします。
 その契約は、履行しなくてもかまいません。ハンコを押したろう、金を受け取ったろう、と迫られても無視していい。契約違反にはなりません。
 むしろ実行を、してはいけません(笑)
 ちなみにもらった100万円も、返さなくていい。ラッキーなのです(笑)

 選挙公約も、契約の一種ととらえれば、きっと同じことが言えるはずです。
 もしそれが不合理で、不道徳な公約であれば。国民の負託を受けたからと言って、撤回してもかまいません。
 当然のことながら、むしろ取り消さなくては、いけないわけです。

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