学校の現場に取り憑いた、「いじめ」の亡霊。
だがその実、この問題には唯一、簡単明瞭な解決策がある。
すべてを警察の手に、委ねるのである。
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もちろん仲間外れやら、無視やらという程度なら、学校教育の範疇だ。
だが話が恐喝、暴行となれば、明確な犯罪である。
学校だけが治外法権というのは、いかにも理屈に合わないだろう。
法を犯したら、刑務所に入れられる。それが法治国家のルールであり、そのルールをまず教え込むのが、教育のつとめではないのか。
教師を間に介しても構わない。生徒が直接通報してもいい。
アメリカ を始めとして、学校に警官が常駐したり、巡回したりする国だっていくらでもある(スクールポリス)。保健室に保健室の先生がいるように。それが当たり前の風景なのだ。
ともかくも一度は、悪党どもを警察の手に引き渡す。当然初回は、起訴されないだろう。それでも刑罰の存在を、身をもって知らしめることに意味があるのだ。
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法を犯したら、刑務所に入れられる。そのルールをまず教え込む。――
もちろん、なぜそれをしてはいけないのか、教えるのはかまわない。確かにそれが、教師の役割かもしれない。
相手の痛みを想像できる、人間を育てる。思いやりと道徳心を養う。すべて立派な心がけだ。
だがそれは法の統治を学んだ後で、あくまでも後付けで、行われるべき作業である。
それを忘れて、ただ能書きだけを垂れているのでは、本末転倒なのだ。
法の後に道徳が来る。
それでは順番が逆だ、と思う者もいるかもしれない。だが法治国家とは、そういうものなのだ。
道徳観の中身なんて、人によって様々である。まったく持ち合わせていない、やつだっている。
そんな主観の産物に頼っていては、社会は治まりはしない。その代わりに、とりあえず全員が合意した、法典が支配するのだ。
私が人を殺さないのは、痛みを知るからでも、思いやりからでもない。ただだ死刑が怖いからだ。
そしてそれで、一向に構わないのだ。
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法を犯したら、刑務所に入れられる。そのルールをまず教え込む。――
だが今の日本では、それができない。
警察なんて口にしようものなら、教育の敗北となじられて、教師としての良心を疑われてしまう。
元凶と思しきものがある。
かつて日教組という団体が、日本の教育を牛耳った時代があった。
旧社会党・共産党系の教職員組合で、国家権力の教育への介入は許さない、などと馬鹿げたことをほざいていた。
学生運動のアホ学生もそれに同調して、いつしか「国家」は「学校」の敵となってしまった。
そこに「金八先生」がやってきた。その後の学園青春ドラマの、元祖である。
この番組が教育について、ある恐ろしい幻想を振りまいた。
教師の情熱と、生徒との心の触れ合いが、すべてを解決すると。――
そうだった。日教組と金八先生。この2つが勘違いの、お花畑の教育論をはびこらせ、学校現場の現実に目をふたいでしまった。
そしてその結果が、今のこのていたらくなのだ。
それは本当はけっして、そうであってはならない。
正しい道は、その逆である。
学校の外だろうと中だろうと、すべての犯罪は警察の手に委ねる。
それはけっして、教育の敗北などではない。
法を犯したら、刑務所に入れられる。そんな法治国家のルールを教え込む、むしろ教育の究極の勝利なのだ。
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