世界は変えられる

 世界は変わらないと言う。どう頑張っても、変えようがないと思っている。

 それは私たちの、外側にあるもの。 不可塑な石質の素材で出来上がった、何か堅固な牢獄ひとやのようなものであると。――

 もちろん自然世界は、冷厳たる物理の法則で、自律的に動いている。私たちの意のままに、形作ることはできるはずもない。
 そういう意味での世界なら、確かに不変であり、不易である。抗いがたい宣告のように、私たちをはてしなく絶望させるものなのにちがいないのだ。
 だがしかし、――

     *

 だがしかしどうして世界を、そんな私たちとは別の、外側にある何かととらえるのだろう?
 もしそれが、人間世界という意味でなら。私たちの社会という意味での「世界」なら、答えはおのずとちがってくる。 

 それはただ、私たちの「あり方」であるにすぎない。
 私が、あなたが、――私たちが居住まいを正せば、すべての邪悪は消え果てる。心が晴れれば、患みなやみはたちどころに失せて、楽園となる。
 それがすべての「私」たちの、総和であるとすれば。「私」が変わることで、世界もまた変わる。変えることができるのにちがいない。

 たった一つの言葉が。音楽が。英知が。人の心を揺さぶり、人を変える。
 そして人を動かす。
 そんな経験なら、いくらもしたことがあるだろう。
 夜を徹して、書物を読みふける。その朝に、世界の彩りが変わって見える。人生の転機となる。――
 そしてもし、そうして一人の「私」を変えることができるなら、どうしてすべての「私」たちにも、同じことが起きないことがあろうか?

     *

 これまでにも確かに、そんなためしはあった。
 十字軍は、はるかな地を目指した。誰もが革命のためにった。
 第三帝国の夢を追った。コミュニズムの熱狂が、世界を覆った。
 みんな同じ原理だ。言葉が世界を変えたのだ。 

 もしそのすべてが、ただ人を惑わして終わったとすれば、英知と思えたものはその実、悪魔のささやきにすぎなかったのだ。
 あるいは、ただはかなく終わったとすれば、言葉にはまだ力が足りなかった。
 天使の言葉に、かつ力が満ち溢れていた例は、少なくとも今はまだない。
 だがこれまでにそれがなかったとしても、どうしてこの先も、ないと言い切れるだろう?

 もし悪に注がれたのと同じだけの才能が――天才がそこにも用いられたら。
 そんな言葉を聞ける日も、きっと来るのにちがいない。
 もちろん私自身には、そんな才覚はかけらもない。
 だがもしキリストにはなれなかったとしたも、キリストのために道をそなえたヨハネくらいには、なるだけの覚悟があるのにちがいないのだ。……

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