(話は前回から続く)
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地球も太陽も、共通の重心を中心として回っている――
上記の議論をもって、天動説に言い及ぶ者もいる。
だが私がかつてここで論じたものは、それとは違う。まったく別の問題――座標設定の問題である。
この世界の事象を――その位置や動きを数値的に分析し、記述するために、私たちは座標というものを用いる。
物差しがなければ、物を測ることはできないのだから、当たり前だ。
どこを原点として、どのような座標を設定するかは、いつでも私たちの任意である。
宇宙のどこかに、初めから何かの座標があるわけではない。私たちが勝手にどこかに線を引いて、寸法を測るのだ。
1. 仮に「共通の重心」を原点に据えて座標を取れば、太陽も地球もともに原点を中心に、それぞれの円運動をするように見える。
2. 仮に太陽を原点に座標を取れば、太陽はもちろん動かずにその周りを、地球が円を描いて回る。(地動説)
3. だが今度は仮に、地球を座標の中心とすれば、地球は動かずにその周りを、太陽が円を描いて巡る*のである。(天動説)
[*一年で一周します。毎日太陽が東から昇り、西に沈んで見えるのは、地球の表面の人間の目を原点に据えた場合のことです。地球の本体(あるいは地球の中心)を原点と考えた、今の議論とは違います。]
座標の設定はいつでも任意なので、どの説明も同じように成立する。
こと地球と太陽の関係だけで考えれば、2も3も同じだけ単純で、平明な記述となる。だから天動説と地動説に優劣などない、というのがここでの私の主張だった。
地球とリンゴの場合に当てはめても、同じことが言える。
先述の「衝突点」を、原点として座標を取れば。地球もリンゴもそれぞれ、そこに向かって突進してきて、ぶつかりあう。
地球を原点に座標を考えれば、地球は動かずに、リンゴがそこに落下する。私たちがが普通になじんできた分析である。
だがしかし――もしもリンゴの方を、座標の原点として捉え直せば。もちろんリンゴは動かずに、地球がそれに向かって激突する。
地球がリンゴに落ちる――それは任意の座標設定の一つであって、けっして暴論でも何でもないのである。
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