<個人情報>「忌み名(実名)」を知られてはならぬ

 人名は血族を表す「姓」と、個人を表す「名」を組み合わせて示す。

 日本を含む漢字文化圏では、古くは本当の「名」は、つまり生まれつき親に付けられた名は諱(いみな)と称され、みだりに他人に教えてはならないとされた。
 たとえ知ってはいても、誰かをそのいみなで呼ぶことは非礼とされた。親や主君のような、目上の者にのみ許される行為だったのだ。
 使うことを忌避するので、「いみな(忌み名)」なのである。

 いみなに代わって、様々な通称が用いられた。
 たとえば人は成人すると、「字(あざな)」と呼ばれる、仮の名を名乗って世に出た。
 たとえば有名な「諸葛孔明」は、本名は「諸葛亮」だ。「諸葛」が姓で、「亮」がいみな。「孔明」は長じて名乗ったあざななのである。
 この「字(あざな)」が、現在我われが用いる「あだ名」の、語源であるとも言われる。

 また官職名や、その人物にちなむ場所の名前で、呼ばれることも多かったろう。
「清少納言」は姓が「清原(=清)」で、「少納言」はもちろん官職名である。その諱はいまだに知られてはいない。
「将軍様」や「お代官様」もしかり。現在でさえ我われは互いに、「社長」「課長」と呼び合っている。
 源頼朝は「鎌倉殿」だ。「桐壺」は起居していたの部屋の名である。「お上(かみ)」は一般人より上にいるから、「奥さん」は奥にいるからである。ちなみに自分の両親の親戚筋は、すべてその住まいのある地名で、「板橋」「三鷹」(ともに東京都内の地名)のように呼ばれていた。

     *

 自分の本当の名は――いみなはみだりに他人に知られてはならない。
 それは一体なぜか?

 考えてもみたまえ。同姓同名の例外は措くとして、私たちの名は私たちという人間の「個」と、不可分に結びついている。
 名は私たちそのものである。少なくともその形代かたしろである、と言っても過言ではない。

 だとしたらそれを誰かに知られたとき、その「私たち」はむきだしの姿のまま、彼らの前にあった。
 彼らの加えるかもしれない攻撃に対して、あるいは及ぼす力の影響に対して、それはあまりにも無防備だった。
 そのようにして、私たちはたちまち彼らの、しばしば悪意に満ちた支配を受けてしまう――と、そんなふうに恐れられていたのだ。

     *

「言霊(ことだま)」という考えも、理解しておいた方がいい。

 古来より人は目に見える世界は、目に見えない何かの力によって、動かされていると感じていた。つまりは「神」である。
 目に見えない世界と言えば、思い至るのは私たちの「おもい」である。神は「想い」のようなものである。少なくとも「想い」と、それを表す「言葉」は、神に属するものと認識された。
 神の「想い」が成就したものが、私たちのこの物質世界だ。「初めに言葉ありき」というのも、おそらくこの意味である。

 だとしたら言葉には、もちろん霊的な力がある。魂が宿る。それを人は「言霊(ことだま)」と呼んだ。
 言葉に言い表された中身は、しばしば現実となって具現した。
 前向きな、希望に満ちた言葉は、善き結果を産む。不吉で気弱な言葉は、災いをもたらす。
 私たちは言葉で神に祈り、呪文で人を呪った。

 そして私たちのいみなには、私たちの魂が宿る。私たちの運命を司る力がある。
 その諱を他人ひとに知られて、何らかの怨念にさらされたならば、何かとんでもない災厄が導かれるかもしれない。
 そんなふうに考えることは、必ずしも蒙昧な迷信とばかりは言い切れない。どこか哲学的な深みさえ、感じられたのかもしれない。――

     * 

 そして何と驚くべきことに、この実名回避の古い習慣が、私たちの時代に再びよみがえったのだ。

 私たちはハンドルネームとアバターで、バーチャルの世界に生きる。
 フェイスブックのようなものはともかく、そこでは実名を知られることは、しばしば命取りとなりかねない。
 なんとか個人を特定しようと、血眼になっているヤツらもいる。
 ときにはネットリンチにあって、首くくりに追い込まれる。

 ネットばかりではない。
 何をされるかわからない。みだりに個人情報を教えてはいけないと、小学校の授業でも教えるそうだ。
 店員や職員の、フルネームの名札も廃止される。モンスターカスタマーの餌食となる。ネットにさらすぞ、の一言で凍り付く。
「名前と顔を、よーく覚えているからな」――こちらの方は昔からの、ヤーさんの定番の脅し文句である。

 風俗嬢は店では、源氏名で働く。一部の客はその本名を聞き出そうと、あの手この手の会話を仕掛ける。帰宅を尾行して、住所を突き止めようとする。
 女の方は後ろ暗いところのある身だから、個人を特定されてしまったら、立場は弱い。金をゆすり取れるかもしれないし、少なくとも「ただマン」くらいはありつけそうだ、と。

     *

 個人的な体験で言えばこうだ。 

 あるとき自宅に、特殊詐欺の電話がかかってきた。
 おそらく出身大学の、卒業生名簿か何かを見てきたのだと思う。
 定番の手口で、エロサイトの利用料金が未納だとか言っている。

 身に覚えがない、というよりは、こっちはエロサイト閲覧のプロである(笑)そんなドジを踏んでいるはずがないので、自信満々に否定してやった。
 するとあちらは逆切れして、こんなセリフですごんでみせたのだ。
「鬼沢哲朗! 調布市○○町4-5-1! お前がそこにいるのはわかってるんだ!
 明日訪ねていくから、(自宅の一軒家の)権利書と印鑑持って待ってろよ!」

 何とも得体の知れない啖呵である。
 おそらくはこちらの個人情報を押さえたことで、鬼の首を取ったような気分になっているのだろう。
 大変な弱みを握ったのだから、相手はもう言いなりになるしかない。家一軒でも巻き上げることができる(笑)と、勘違いしまくっているのだ。

 もちろん先方は、名簿の入手にはそれなりに、手間をかけたのかもしれない。
 だがそんな、氏名と住所と電話番号だけなら。実はNTTの電話帳にも、ふつうに載っていたクズ情報なのだ。
 相手の低能ぶりを心で笑いながら、それでも自分はつくづく思った。
 平安の世からめぐりめぐって、けっして忌み名を知られてはならない時代が、またしても訪れたのである。――

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<補注>
 今話題の紫式部にしても、「式部」は官職名である。
 「紫」は源氏物語の作中人物「紫の上」にちなんで、後世が名付けたもの。当時の宮中では、「藤式部」と呼びならわされていた。父親が藤原氏(為時)だったから、「藤」なのである。
 諱はもちろん、知られていない。大河ドラマで「まひろ」としているのは、まったくのでっち上げだ。
 名無しのままではドラマにならないから、歴史の真実にあえて背を向ける、苦渋の選択をしたわけだ。

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