(前回から続く)
大衆は大きな罪はたちまち赦してしまう。その罪が大きすぎて理解できないから、記憶に留めておくことができないのだ。――
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それに比べて、舛添要一はどうか?
公私混同疑惑で都知事を辞任した舛添は、二度と選挙に出ることはなかった。
出なかったから、当選しなかったのではない。そこは頭のいい男なので、見込みはないと悟っていたから、出馬しなかったのだ。
本人が一番よく知っていたように、選挙民はけっとて舛添を赦さない。だがそれは、どうしてだろう?
舛添が一体、どんな大悪事を働いたというか?
大きく政策をあやまった、という評価は聞かない。命取りになるような失言をしたわけでも、政治的な失態をやらかしたわけでもない。
政治家としての、資格が問われたわけではない。ただ一個の人間として、不適格だっただけだ(笑)
政治資金で家族旅行をした。それがもっとも主要な疑惑である。その他無数の不正が判明したが、多くは10万単位のちょろまかしである。100万はあったとしても、とうてい億の声を聞くようなものではなかった。
冷静に考えれば、彼の受けた扱いは、みそぎをクリアした先述の面子と比べれば、つり合いという点ではいかがなものかと思う。
だがしかし、そこにこそ、あの逆説が作用するのだ。
舛添の罪は小さすぎた。大衆が十分理解できるほど、その想像力が十分及ぶほど小さかった。
まるで彼らの、小市民的なちょろまかしの延長であるかのような、小悪事を積み重ねた。
すべてがあまりにも身近で 近所のおやじがうまくやりやがった感があるから、大衆はけっして忘れなかった。永遠に赦されることはないのである。
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大衆は小さな罪は永遠に赦さない――
豊田真由子にしたってそうだ。彼女が一体、何をしたというのか?
その政治的主張は、至極真っ当である。国会での態度も発言も立派なもので、汚れた噂があったわけでもない。
いかなる大罪も犯してはいない。ただハゲを、ののしっただけである(笑)。慢性PMSかもしれないじゃないか(笑)。
もちろん褒められたことではないが、田中角栄あたりと比べれば、である。
彼女も多分、そんなふうに受け止めた。だから当たり前のように、次の選挙に打って出た。
多くの先輩方がそうだったように、ほとぼりがさめれば、みんな忘れてもらえる。みそぎを済ませて、返り咲くことができる、と。
不出馬の舛添と比べて、そのあたりの政治的嗅覚は、大いに不足していたと言わざるをえない。結果は彼女の期待に反して、立候補者中最低の得票数となって、恥の上塗りをしたわけだ。
大衆はけっして、豊田真由子を赦さなかった。その罪が小さすぎるがゆえに、彼らのアンテナが敏感に反応したのだ。
ハゲをネタにあざ笑う。目上の者がふんぞり返る。あまりにもありそうな、日常の風景だけに、瞼に焼き付いて離れない。わが身に引き比べて、十分類推可能な小さな罪を、大衆は永遠に赦さないのだ。
そのうえ豊田真由子の場合は、ワイドショーの恰好の餌食になった。お笑いのネタに、なってしまった。むずかしい政治のことは忘れても、腹を抱えて笑ったネタだけは、忘れ去ることはない。
そのうえ今は、ネットの時代だ。豊田真由子の「このハゲ」動画は、永遠にアーカイブされた。百年後でも千年後でも、ユーチューブで閲覧される。
文字通り末代まで再生され続けるわけだから、自業自得とは言え、大変な地獄にはまってしまったものだ。
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ちなみに舛添要一の辞任劇は、海外でも大きく報道された。
何とあのニューズ・ウィークも、相当のスペースを割いて論評した。
その中で話題に上ったのが、「せこい」という言葉だった。
本家日本のマスコミが、舛添の言動を形容する際に用いる「せこい」という日本語を、英語で何と翻訳すべきか考察したのだ。
いくつかそれらしい候補は挙がったが、いずれも微妙なニュアンスを伝えきれていない。万事しみったれた舛添のあり様を、描くには足りなかった。
それならいっそ、sekoi をそのまま外来語として、英語に取り入れたらどうか。ちょうど kimono (着物)や umami (うまみ)が、今では英語の辞書に採録されているように。
もちろん多少のブラックユーモアも込めて、そんな問題提起をしたのだ。
どうやら提案は実現に至らなかったようだが、氏はさすが国際政治学者らしく、もう少しで国際的な語彙の増強に貢献するところであった。
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たががしかし、氏を形容するのにもっとふさわしい言葉を、私は知っている。
これもまた同じように翻訳不能の、「不徳の致すところ」という表現である。
人を殺した者が、「不徳の致すところ」とのたまうことはない。
比較的軽度な失態――不適切だが違法ではないふるまい、致命的ではないが望ましくない事態を弁明して、用いられるフレーズだ。
形ばかりの謝意と反省のポーズを見せながら、あくまで罪は認めない。落ち度は認めながら、けっして悪心からではない、ただ人間としての修養の甘さだと、 言辞を弄してはぐらかすのだ。
確かに本人が用いれば、きわめて政治的な、責任回避の言葉となる。
だがいったん他人が用いれば、これがたちまち冷笑と、揶揄の響きを帯びる。
そうなのだ。舛添のやらかしたすべてのちょろまかしは、けっして法廷で裁かれるような犯罪ではなかった。すべてはあいつの、「不徳のいたすところ」なのだ。
だだその徳のなさ。人格的な美しさと、人間的な品位の欠落。しみったれて、けちくさいお人柄。
大罪人の方がまだ、かっこよかった。悪役ならダークヒーローということもあるが、かの御仁はただ漫画にしかならない。
邪心の方がまだ救いがあった。一時だけ魔が差した、ということもあるだろう。だが徳のなさは、人間の本質にしみ込んだ習性のようなものなので、そんじょそこらのセラピーじゃあ治せはしない。
そういえば豊田真由子だって、同じことだ。彼女も裁判沙汰になんかなっていない。ただ人間が壊れていた。そのヒトとしての本然が、ぶっ飛んでいた。すべてはここでもまた、不徳の致すところなのだ。
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――ということで、ずいぶん長くなりましたが、今回は不徳の致した二人の政治家のことを取り上げてみました(笑)
ちょっとばかり、ネタが古いかな。
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