岸田政権がまた、次々と子育て支援策を打ち出している。(注)
バラまき以外の何ものでもない。まあ支持率ほしさの、悪あがきの一貫なんだろうが、とりわけ少子化対策に躍起になっているのは伝わってくる。
だがしかし、――
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少子化については、過去投稿で書いた通りだ。
要約しておくと、
1.地球全体、世界全体で見た場合、人類が直面しているのは人口の「減少」ではなく、その「過剰」である。
2.日本国内だけで見た場合、確かに子供の数が減少すれば、将来の国の経済を支える、労働力が不足する。
だが何のことはない。 足りないというのなら、外国から移民を連れてくればいいだけの話だ。
そのうえAI搭載ロボットを使えば、人間の労働者なんて、はじめから不要になる。
3.そもそも子供を作らないのは、金が足りないからじゃない。すべてはただ、価値観の問題だ。
六本木ヒルズの住民が子だくさんだ、なんて話は聞いたことがない。
金の問題じゃないんだから、いくら金をばらまいたって、子供なんか増えっこないない。
人買いのようにはいかないのだ。
つまりは少子化対策と称して、無益かつ何の効果も望めないところに、膨大な予算をつぎ込むわけだ。
そのうえ税金も上げられない情勢だから、すべては国債頼みだ。ただでさえ気の遠くなるような国の借金が、さらに野放図に膨らんでいく。まさに亡国の施策なのだ。
そのうえ恩恵を受けるのは、子育て世帯だけだ。大いにバランスを欠く。冷遇された他世代や、子なし世帯からは、不満たらたらだ。(注)
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金の問題だけではない。
「少子化対策」の掛け声を聞きつけるうちに、子育て世代が、すっかりつけあがってしまった。
かつての大戦時には、産めよ増やせよの政策で、多子世帯が表彰されたものだ。今では表彰こそされないが、それ以上に、下にも置かぬもてなしだ。
さんざん持ち上げられた挙げ句、いつしか思い違いを始めた。自分たちは国難の解決に、貢献している。まるで救国の志士であるかのように勘違いして、鼻高々だ。
子どもを育てる自分たちは優等国民だ。そうでない連中は劣等だ、非国民だと、ほとんど土下座を要求してくる。
自分の家の隣に、ちょっとした児童公園がある。
以前はちらほらと子供が訪れる程度の、のどかな公園であった。だが最近になって、情勢が一変した。
近隣に次々と高層マンションが出来上がり、なぜかそのすべてに子育て世代が入居してくる。クソガキ世代の人口が、爆発的に増加したのだ。
その連中が、児童公園に殺到する。朝から晩まで、ギャーギャー絶叫しながら走り回り、ブランコをキーキー鳴らす。
平日の昼間は、保育園に行くから、大丈夫だろうって? ところがどっこい、そうはならない。
最近は園庭のない保育園も、開設を認可される。そいつらが児童公園を園庭代わりに使おうと、あちこちから遠征してくるのだからたまらない。
文句でも言おうものなら、きっとこういう言葉が返ってくる。
――子供の声って、騒音ですか? 未来の世代の元気な姿は、微笑ましい。結構なことじゃないですか。温かく見守るだけの、人間味もないのですか?
――そんなことを言っているから、いつまでも少子化が止まらないのです。もっと子供たちが住みやすい環境を、子育てがしやすい社会を、作るべきなのです。……
つまりは岸田政権のお墨付きをもらって、まるで水戸黄門の印籠みたいに振りかざし。でかい面して、傍若無人に振る舞っているわけだ。
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騒音問題に関して、一年ほど前、ちょっとしたニュースがあった。(注)
長野のある町で、近隣住民の苦情を受け入れて、公園が廃止となったと。
我が意を得たり、という感じだが、ネットでは大騒ぎだった。
たった一人のクレーマーの意見を取り上げて、公共の利益を、犠牲にするのかと。
そのうえその住民が、どこかの大学の名誉教授であるとかで、上級国民の横暴と騒いでいた。
どれだけ頭の悪い論法だろう。
たった一人の人間なら、公共のために、犠牲にしてもかまわないのか? 多数派が殺せと議決したら、少数派は殺されても、文句は言えないのか?
そこには沖縄の基地問題や、福島の原発問題と、通底する論理の誤謬がある。少数の地域住民の犠牲の上に、多数派の幸福を築きあげるというのは、いかにも理にかなわない。
たかが児童公園のことで、大げさなことを言うなって? それはむしろ逆だ。
基地や原発なら、地域経済も潤うような、補償の構造がある。だが児童公園の隣家には、得るものは何もない。その意味では、こちらの方がより悲惨な状況なのだ。
オレだって、なにがしかの金を包んでくれれば、あっさり引き下がるさ。
こんな投稿で、たらたら不満をたらしたりはしない。
だからさっさと、口止め料よこせよ(笑)
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そのうえ例の、長野のニュースの場合、苦情を言ったのは「大学の名誉教授」だ。
そこがミソなのだ。
自分の場合もそうだが、知的な人間は雑音を嫌う。
にぎやかな、お祭り騒ぎが好きなのは、低能児ばかりだ。
高尚なる精神生活には、どうしても静寂というものが必要なのだ。
深遠な思索にふけるにも。しめやかな情趣にひたるにも。エロ動画に集中するためにも(笑)
その知的な人間は、ひょっとしたら天才かもしれない。国の宝かもしれない。
それに比べて、公園でギャーギャーわめいているガキどもは、どうみてもガラクタだ。
掃いて捨てるほどのガラクタのために、かけがえなのない宝を殺すような、そんな取り返しのつかない過ちは、けっして犯してはならない。
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子供がかわいいなんていうのは、自分の子供の場合だけだ。あるいは自分の子供の、友だちのことだ。
赤の他人のクソガキなんて、かわいいわけないだろう。ただの騒音なんだ。
かつての中国で、「一人っ子政策」というのがあった。二人以上子供を作ると、あれこれと罰則が定められていたのだ。
そんな理想の社会を、再びこのわが国に、実現することはできないものか。
最近よく、通り魔的な殺人事件がある。大量殺人もある。犯人はたいてい「誰でもいいから、人を殺したかった」と言う。
そんな事件のニュースを聞くたびに、つくづく思う。誰でもいいというのなら、いっそオレになりかわって、あの児童公園のガキどもを、みな殺しにしてはくれないものかと。――
(参考過去投稿:少子化って何?(1)(2)「AIに仕事を奪われる未来」とは? ベーシックインカムはすべてを救う)
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