売春ノススメ

 売春は罪だとか、悪だとか言う。何のことだか、さっぱりわからない。
 見当違いも、はなはだしい。

 筋骨隆々の体躯が、ツルハシを振る。汗臭くも尊い、肉体労働である。
 たおやかな女体が、男をからめる。春を売る。一体どこが、どう違うのだろう?
 上司に媚びることもない。社畜となることもない。人間関係に、神経をすり減らすこともない。
 文字通り身一つの、究極の「肉体」労働なのだ。たとえそれが肉体の局部を用いるとしても、一体そのどこに卑しむものがあろう?

 たいていの勘違いは、「性」を「生殖」と結びつける。命を授かるあんな聖なる営みを、金銭で売り買いするのはけしからん、というわけだ。
 そもそも生殖が神聖だなんて思わない。それはここで論じた通りだ。
 だが百歩譲ってその通りだとしても、風俗の個室で、子を作っているわけではない。生殖を行っているわけではないのだから、そんな非難はまったく当たらない。

     *

 そもそも性労働は「性器労働」ではない。「性」と「性器」は、その字づらほど同じものではないのである。
 当たり前のことだが、股間だけいくら提供しても、客がつくわけではない。
 それなりの「美」が伴わなければ、商売にもならない。
 そして生身の裸体が「美」であることは、ミロのヴィーナスが美であることと、少しも変わりはない。人の手になる彫像が芸術で、神の造化の裸身が猥雑とそしるのは、とても理にかなわない。

 またそれなりの、「愛」も必要だ。
 少なくとも愛嬌がなければ、商売は成り立たたない。それあってこそ客の心は和み、癒されるのだ。
 売笑、売色と蔑むなかれ。舞台の上で笑顔をふりまくアイドルだって、行われていることは同じなのだ。
 あちらは微笑ましく、こちらは忌まわしいというのは、物事の本質が少しも見えていない。ただの固陋な偏見でしかない。

 それなりの「美」と「愛」と、――だとしたらそれはただの、肉欲の満足ではない。
 不足と欠落を埋め合わせ、渇望をいやす、どこか精神的な営みでもあるのだ

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「美」や「愛」を、金で売り買いするのは、不謹慎だと?
 だが名画をオークションに出せば、何億もの値付けで、落札されるのではなかったか?
 それとこれと、一体何がどう違うのか?

 価値のあるもの、望まれたものに値段がつく。金銭がやりとりされる。別に当たり前のことだ。
 与えた者が、見返りに報いられる。ついやされた時間に、対価が支払われる。何がどう問題なんだ?
 ステレオタイプの思い込みを捨てて、虚心に眺めさえすれば、そこには何一つ嘆かわしいものなどない。
 ただ愛と美と幸福を売り買いするだけの、妖しくもすてきなシステムなのだ。――

                *  *

 売春と言えば、貧困を連想する。
 凶作に襲われた東北の寒村で、食い詰めた親が娘を身売りする。
 囚われの身となったまま、足抜けを試みれば、凄惨な拷問で罰せられる。――

 もちろん今はもう、昔の話だ。二度と繰り返してはならない光景だ。
 だがそんな時代でさえ、売春は悪ではなかった。
 それはそうだろう。売春が貧困を、招いたわけではない。因果はその逆だ。あくまで元凶は貧困であって、売春はただその結果の一つでしかない。
 そもそもが、もしもそれがなかったら、――娘が身を売らなかったら、一体何が起きただろう? 女はもとより、一家全員が飢え死にするしかなかった。

 だとしたら、取り違えてはならない。売春が悲劇なのではない。売春は悲劇を救ったのだ。
 売春はあまたの命を助けた。あんな時代でさえ、それは悪ではなかった。悪が生むにちがいない悲劇を、抑止するために考案された、それは大切な社会的装置だったのだ。
 
     *

 食い詰めて売春に走る。余儀なくされる。
 昨今ではそんなためしを、あまり聞かない。
 もちろんいつだって、例外というものはある。論ずる者たちは、そんな少数を見つけてきては、ほらやっぱりと、針小棒大に騒ぎ立てる。
 あくまでも時代錯誤ア ナ ク ロな、紋切り型の理解にしがみつこうとする。

 だが現実は、けっしてそうではない。今やおおかたの風俗嬢は、貧困とは縁がない。
 大学の授業料を捻出する。奨学金を返済する。これはよく聞く話ではあるが、はたしてそれが困窮と言えるのかどうか。
 女たちはたいてい、もっとずっとしたたかだ。ときには堅実で、どこか健やかでさえある。
 資格を取るための学校に通いたい。起業のための資金を作る。自分のお店を開きたい。直接の目的はないが、将来に備えて、稼げるうちに貯蓄をしておきたい。……
 彼らにとって売春はもはや「運命」ではなく、「選択肢」なのだ。しかも割の良い、魅力的な選択肢なので、あくまで自発的に、迷うことなく飛びついたというわけだ。

 もちろん相変わらず、困ったやつらも多い。
 男にだまされて。ホストに入れあげて。――もちろんそれは、あまりよろしくはない。嘆かわしく、いけないことかもしれないが、あくまで好きで身を滅ぼしているわけだから、本人の勝手だろう。
 少なくともそれは、大きな社会的な不正義の、犠牲者とは違う。
 多少の心の治療は必要でも、糾弾すべきような悪ではない。援助の手を差し伸べるような、圧倒的な弱者などではないのだ。

     *

 売春と言えば、性差別の問題がつきまとう。  
 女が泣かされ、虐げられた時代の産物だ。そんな印象を引きずって、いつまでも切り離せない。
 だから何をおいても、なくさなくてはならない不公正なのだ――というのがフェミニストたちの論法だ。

 確かに、それは一理ある。
 男が買い、女はただ買われる。そんな非対称には、いつでも論理の破綻と、不正義が隠れている。だとしたらそれは、何としても解消されなければならない。
 だから売春は即刻、消滅するべきなのだ? ――だがそれにはあくまでも、売春は悪であるという前提がある。
 もしそれが悪でないとしたら、ひょっとして善ですらあるとしたら、非対称の――男女差別の解消には、もちろんもう一つの道がある。

 女も男を、買えばいいだけの話である。
 愛と美を金銭と交換する、このすばらしい営みを、女性たちもまた享受する。
 ホストクラブでもいい。女性用風俗でも、ママ活でもいい。愛人の若いツバメを囲ったっていい。
 実はもう、今でも結構盛んなんだが、そんな望ましき潮流がもっともっと大きくなって。
 本当に、男性どもがなすのと同じくらいに堂々と、行われるようになったとき。
 もう誰もそれを、女性差別だなどと、噛みつく者はいなくなることだろう。――

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