(話は前回から続く)
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コロナ禍のときに、こんなことがあった。
特措法に基づき、知事が施設などに休業要請を行う。
要請はあくまで協力のお願いであって、強制力(罰則)はない。その代わり、従わない施設については「店名の公表」を行う、というのだ。(注)
特措法以外にも、似たような事例は多々あった。法的に処罰はできないが、違反した場合は「企業名を公表する」みたいな。――
名前を公表する目的は、もちろん一つしかない。
世間に広く晒すことで、不買運動を起こさせる。ひっきりなしの電凸(注)やらで営業を妨害し、二度と企業が成り立たないようにしてやる。店をつぶしてやる。
それがいやなら、黙ってオレたちの言う通りにしろ、と脅しているのだ。
とんでもない話である。
刑罰を課すことができるのは公権力だけ、という法治国家の原則をあっさりと放棄して、社会的制裁にすべてを委ねてしまう。
自らは手を汚すことなく、責任を回避したまま意を通す。もっとも薄汚いやり方なのだ。
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ふと、以前見た外国映画を思い出す。
詳細は忘れてしまったが、昔の外国が舞台の作品だ。西部劇だったかもしれない。
ある囚人が、民衆の強い怒りを買っていた。死罪にしろ、と誰もが叫ぶ。
統治者は困惑した。法の手順に従えば、極刑までは課せないケースだったのだ。かといって、人々の声を無視するわけにはいかない。
そこで彼は名案を思いついた。――驚くことに、何やかやと理屈をつけて、悪党を無罪放免としてしまったのである。
だが喜んだのもつかの間、男はたちまち待ち受けていた民衆に取り囲まれて、ぼこぼこにされてしまった。なぶり殺しにされたのである。
つまりは男は、本当は釈放されたのではない。あとはお前らの好きにしろと、いわば暴徒たちに下げ渡されたのだ。
統治者はただ、見て見ぬふりをした。自ら縛り首を選ぶ代わりに、あくまでも衆愚の群れに刑を委ねる。われとわが身に、火の粉がふりかかることがないように――だとしたらそれは、あまりにも狡猾な逃げ道だった。
法の網の目をくぐり抜けるやつがいるなら、網の目を繕えばいいはずなのに。法以外の盲目の力に、すべてを委ねてしまった。――
とんでもない話だ。野蛮な国の野蛮な時代の話だ、と思うかもしれない。
だが同じような悲喜劇は、私たちのこの社会でもまた、たえず繰り返されている。
コロナ禍で小池百合子のやったことは(笑)まさにそういうことなのだ。
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そればかりではない。
法治国家の理念にもとる社会的制裁。人民裁判。私的リンチ。――
すべての愚行はネット時代の昨今、これまでのいつにもまして安易で、かつ凄惨なものになった。
何しろ今では群衆は、ネットの闇の安全地帯に隠れたまま、匿名のまま餌食を屠る。
わが身を危険にさらすことはないから、一方的に、思う存分攻撃を加えることができる。
スマホ一つあれば、SNSを通じて、誰もが手軽に参加できる。
初めは有名人や、上流国民が標的だった。
だがいつしかそれでは飽き足らなくなり、ヤフーニュースでちょっとした逸脱や失敗を見つけてきては、みんなでやっつける。
義憤に駆られてというよりも、それが彼らの生き甲斐なのだ。金のかからない、唯一の楽しみなのだ。
ネットリンチで土下座させる。芸能界から放逐し、店舗は閉鎖に追い込む。ときには首もくくらせた。――
さしずめ今度の美人局の事件はなんかは、絶好のネタだった。
もちろん犯罪行為なのだから、非難されるのは当たり前だ。
だが実名公表というのはちがう。それは法治国家のやり方ではない。
それでは例の映画の中の、暴徒と同じだった。囚人をここに、引きずり出して来いと叫ぶ。刑務所の――匿名の壁の向こうにいたままじゃ、ネットリンチができないじゃあないか。
このままじゃあ自分たちの安物の正義を、振りかざすチャンスを奪われてしまう。そのことがただただ、歯がゆくて仕方がないというわけだ。
何しろそうして、実名晒せとわめいている当の連中が、匿名のままなんだから笑ってしまう。
ずいぶんと、都合がよすぎる話だと思う。
むしろあの、徒党をなした正論屋たちの実名こそ、晒されるべきなんだと思う。
公明正大なプラットフォーマー様。是非是非そこのところを、よろしくお願いますよ
(笑)――
参考過去投稿:
「責任能力」がないから死刑にする
万引き一つで死刑でいい(1)
万引き一つで死刑でいい(2)
法治国家の原理原則(1)
法治国家の原理原則(2)
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