「実名公表」って何?(1)

 中学生の男女3人組が、男子大学生に美人局つつもたせをしかけた。

 ビルの屋上でボコボコにされた大学生が、逃げようとして転落死した。――

     *

 「子供たち」の凶悪犯罪が報じられるたびに、「少年法」がやり玉に上がる。

 13歳以下であれば、刑事責任能力なしとされ刑罰は受けない。
 それ以上の年齢でも、思い切り甘ちゃんな、保護処分となるのが通例である。またまだ更生の余地が大きい少年だから、刑罰を課すよりも教育を優先すべきだ、というわけだ。

 そんな少年法の精神に、ネット民たちが食ってかかる。
 美人局なんていう大人顔負けの手口で、強盗致死を犯した連中が、お咎めなしというのはどうにも納得がいかない。
 ちゃんと法定刑通りに「死刑ないしは無期懲役」に処すべきだと。(注)

 その点に関しては、自分も珍しく(笑)ネット民と同意見である。
 詳しくは過去投稿に書いた通りだ。教育可能性はもちろん、責任能力の有無にもかかわらず、犯罪は処罰されるべきだと考えるからである

     *

  一方、同時に必ず議論されるのが「実名報道」である。
 十八歳未満(旧来は二十歳未満)の少年の犯罪に関して、少年法は実名報道を禁止している。
 それもまたけしからん。美人局をした中学生たちの名を晒せ、と息まいているのである。

 だがしかし、それはちょっと違う。
 少年たちの犯罪も、大人同様厳しく罰せられるべきだ。だがその実名は、絶対に晒してはならない。
 それはけっして、少年だから・・・・・ではない。若年であろうとなかろうと、そもそも犯罪者の名前を報道するという、慣習自体が理にかなわない。あってはならない暴挙なのだ。

 それはそうだろう。
 犯罪は国家が裁く。法律に基づいて刑罰を課す。それ以外の何物も、私たちを罪することはできない。――それが法治国家の原理原則だ。
 ところが実名が報道されたらどうだろう? たちまち「世間」がしゃしゃり出てくる。
 事件の当座だけではない。刑を終えて罪を贖った後も、後ろ指を差され続ける。
 失った職に再びつくこともできずに、社会的に葬られ、一生日陰の身の上ですごすことになる。

 実名報道の向こうに待ち構えているのは、要するに社会的制裁。人民裁判。私的リンチ。
 私たちの近代国家が手を切ったはずの、そんなおぞましい過去の風習と、その本質は同じものなのだ。
 そんなことが、そんな不条理が、一体許されていいものだろうか? 

     *

「法律的には問題はなくとも、倫理道徳にもとる」「世間が許さない」
そんな言いぐさが、そもそも間違っている。

 倫理観の中身なんて、人によって様々である。そんな主観の産物に頼っていては、社会は治まりはしない。
 その代わりに、とりあえず全員が合意した、法典が支配する。それこそがいわば、最大公約数の道徳として機能するのだ。
 曖昧模糊とした道徳律は、しばしば恣意的に運用される。そんな危険を避けるために、明文化された法を整備したのだ。

 世論は必ずしも、正義であるとはかぎらない。
 それはしばしば、間違いを犯す。なぜなら世論の担い手は、愚昧な多数派の民衆だからだ。
 少なくともそれは、悟性的な議論とは違う。
 大衆の時々の気分が、気まぐれな感情が醸し出した、ただの時代の雰囲気であるにすぎない。
 感情に、とりわけ遺恨に突き動かされる世論ときに恐ろしい、盲目の意志となって蛮威をふるう。
 魔女狩りも、ギロチン合戦も、600万のユダヤ人の大虐殺も。みんな多数派の道徳の暴走が、少なくとも世論の後押しが、もたらした所業だった。
 そんな愚を繰り返さないためにも、理知的な議論に基づく、法治を宣言した。そのことをけっして忘れてはならない。

 別に触法少年に同情するわけではない。ましてや成人の犯罪者に、肩入れするわけはない。
 それどころか、厳罰化には大賛成だ。万引き一つで死刑でいい、くらいに思っている。
 だがそれはあくまでも、法的な手順を踏んだ上でのことである。
 理性的な議論を介して。法理とその運用に通じた、専門家集団の助けも借りて。道理をわきまえた、冷徹な政治家に導かれて。
 もしそれがなかったら、――もし大衆そのものが、世論そのものが直截に権力を握ったら、それはたちまち暗愚で、専横で、狂暴な怪物と化す。……

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(話は次回に続く)

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