国境(くにざかい)の長いトンネルを抜けると雪国であった 

 文学の誤読というのは、往々にして起こる。
 内容の取り違えもあるが、文字通り漢字を読み間違えることもある。それも誰もが知るような、名作においてさえ。

 1968年に川端康成が、日本人初のノーベル文学賞を受賞した。
 日本中がそのニュースで持ち切りになり、代表作として『雪国』が紹介された。
 最後まで読むのはかったるいので、みんな出だしだけ、かじったのであろう。その冒頭の一文が、テレビ・ラジオで散々、アナウンスされたものだ。

――国境(こっきょう)の長いトンネルを抜けると雪国であった 。
 誤読である。正しくは「くにざかい」と読む。

     *

 小説の舞台となった新潟県は、旧称越後国(えちごのくに)。一方隣の群馬県は、上野国(こうずけのくに)だ。 
 したがって両者をつなぐのは、「国境(くにざかい)のトンネル」なのだ。
 当然のことながら、外国に向かっているわけではない。

 直後から、誤りを指摘する声は多かった。
 マスコミの報道だけなら、すぐに訂正されたのだろうが、文学界の大御所やけっこうな識者までも同じような読み方をしていた。

 彼らにはメンツというものがあるので、なかなか負けを認めようとしない。
 いまさら引くに引けない感じで、苦し紛れの屁理屈を並べては「こっきょう」をごり押ししたのだ。

     *

 彼らの挙げる根拠の一つは、「作者本人の談」である。
 実際には確認は取れていないのだが、「こっきょう」と読まれることに対して、川端康成が「そう読んでもらってかまわない」と発言したそうだ。
 そのことをもって、ほら見たことか、やっぱり「こっきょう」じゃないかと、鬼の首でも取ったように勝ち誇ったのだ。

 牽強付会も、はなはだしいだろう。
「そう読んでもらってかまわない」というのは、「自分もそのつもりで書いた」ということとは、まるで違う。
 自分はそのつもりではなかったが、もし世間様がそう読みたいのなら、文句を付けるつもりはない。筆者が寛容の態度を示した、と受け止めるのが道理なはずだ。

 また別に、川端が「国境(こっきょう)と読んでいるでしょうね、みんな」と言った、という説もある。
 この発言だって、同じことだ。いやむしろ、「自分はそのつもりではなかったが、世間の馬鹿どもはきっとそう読み間違えるだろうね」と、あざ笑っているかのようにさえ聞こえる。

     *

 負け惜しみの根拠が、もう一つある。
 例の県境(けんざかい)の話をするときに、上越国境(じょうえつこっきょう)という言葉を使うことがある。川端自身も、そのことに触れたというのだ。

 これもまた、噴飯ものである。
 なるほど地理的な話をするようなときに、そんな日本語も使われる。
 だがそれはあくまで、上越(じょうえつ)という音読みに続けて、連語を作ったからにすぎない。
 「越後国(えちごのくに)と上野国(こうずけのくに)の国境」と、訓読みに続けてもなお「こっきょう」と発音すると、言い張るつもりだろうか。

 あるいは連語ではなく、行政向けの用語でもなく、ごく日常の言葉遣い として、 会話の中に用いられた場合はどうなのか?
 たとえば駒子だか何だか知らないが、あの時代の、当の小説の中の人物が、
「国境(こっきょう)のあたりさ、今日も雪だんべえか?」(注)
とでも、しゃべったと言うのだろうか?

(注)新潟の方言を知らないので、勝手に北関東弁に翻訳してしまいました。
   越後の田舎者のみなさん、どうもごめんなさい(笑)

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