(話は前回から続く)
「 江川事件」の、その後の顛末はこうだった。
八方ふさがりの四面楚歌の中で、巨人はついに窮余の一策に出た。
江川の交渉権を得た阪神に、エースの小林繁を譲り渡すことで、あくまで江川の入団を強行したのだ。
いわば小林と江川の交換トレードという形で、手打ちとしたわけである。
それはまた世間をあっと言わせた、ウルトラCの裏技であった。
翌日のスポーツ紙には、「男小林」をほめたたえる記事が踊った。
愚痴一つこぼすでもなく、意に沿うはずもない移籍を、黙って承諾した小林の侠気――それは小林を犠牲にしてまで希望をごり押しする、江川のダーティーヒーローぶりと対比をなして、絶好の浪花節の素材となったのだ。
あまつさえ移籍の会見で、この男の中の男は、古巣への不満を垂れるでもなく「阪神の優勝のために全力を尽くす」とやったものだから、巨人ファンはもとより阪神ファンも、ただただ感涙にむせんだわけだ。
*
だが真相はおそらく、それほどきれいごとではない
何しろ読売新聞は昨日まで、憲法違反のドラフトを糾していたのだ。
希望の球団に入団できないドラフトが、人権侵害だと言うのなら、意にも染まない移籍を迫るトレードは、輪をかけた非道ということになる。そこには誰の目にも明らかな、自己撞着があった。
そこを一言でも突っ込まれたら、たちまち破綻してしまうような、いわば綱渡りの打開策――それを可能にする唯一の方法は、ただ小林選手に「黙っていてもらう」ことしかなかった。
けっして不服の声は上げないこと。不承知のそぶりを見せないこと。
まるで本人の希望した移籍であるかのように、余計なことは言わずに、平然とポーカーフェイスでいてもらうこと。
それが絶対的に、必要だったのだ。
そのために巨人が、何も手を打たなかったわけはない。
慰謝料兼口止め料として、相当な金銭が支払われただろう。
それか大人の社会というものなのだ。
金額がいくらなのかは、わからない。ただおそらくは億というような、相手にも十分満足のいく数字 ――黙らせるに足る大金だったのは、間違いない。
だから小林氏は黙っていた。裏交渉の結果として、納得づくで黙っていた。
それなのに一夜明けたら、一躍正義のヒーローに祭り上げられていたのだから、小林氏もさぞかし面映ゆかったことだろう。
*
もちろん以上は、あくまでも自分の、個人的な推察である。
いかなる証拠にも、基づいているわけではない。もちろん実際に舞台裏を、覗いたわけではない。
ただの下種の勘繰りと、指弾されても仕方がない。
だだ世の中の仕組みというものは、通常そんなふうに動く。
出来すぎた美談には、普通は裏がある。
そういう場合には、たいてい根回しがある。裏金の授受が行われ、何らかの約束が交わされた、と考えるのが自然なのだ。
だがそれはあくまでも「通常は」、「普通は」、「たいていは」である。
何一つ事実を述べているわけではなく、一般的にはそうである可能性が高い、と指摘しているだけなのだ。
もちろん天が下のすべてが、蓋然性で決まるわけではない。
当たるはずもない確率の宝くじだって、実際に当選している人がいるのだ。
常人のスケールでは測れない豪傑もあり、凡夫の想像をはるかに超えた英雄だって、確かにいただろう。
だとしたら、今は亡き小林繁さん。
本当にごめんなさい。いさぎよく前言を、撤回しましょう。
あんたはきっとそんな、真のヒーローだった。
根回しもなく。口止めもなく。裏金もなく。ただだ男らしく、黙って移籍を受け入れたにちがいない。
そうして今となっては、輝く夜空の星となって――文字通りのスタアとなって、こんな皮肉屋たちの勘違いを、やさしくたしなめているにちがいないのだ。……
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