多数派の洗脳を教育と呼び、少数派の教育を洗脳と呼ぶ。
私たちは誰もが遠い昔、小学校の教室で教えられた。
民主主義は、とてもすばらしいこと。平和がいかに大切か。命の尊さ。――
そうして説かれた通りに、つゆ疑わず、そっくりそのまま受け入れて。大の大人になっても相変わらず、同じような念仏を唱えている。
つまりは、洗脳である。
ただそれが多数派の洗脳であるがゆえに、教育と言いなすのだ
また遠い、海の向こうのかの国で、おさな子たちは教えられる。
神は偉大であること。預言者の啓示がいかに尊いか。大義のために死せ、と。――そして何一つためらうこともなく、誰もが信ずるままに赴くのである。
もちろんそれも、また教育である。
ただ海のこちらの私たちの目には、そんな彼らのやり方はとても異体で、野蛮にすらに映る。
それゆえに彼らの教えを、洗脳となじるのだ。
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多数派の洗脳を教育と言いなし、少数派の教育を洗脳となじる。――
ある者はときどき、わけのわからない理屈を言う。正しいことを教えるのが、教育なのだ、と。
もう少し気の利いた連中は、こんなふうに指摘する。
洗脳の証はその無批判性だ。批判の洗礼に耐えて、検証された教えが、教育なのだと。
もちろんどちらの言い分も、あまりにも見当はずれだった。
そこでは正しいと信じているのも、検証を経たと言い張るのも、当の本人だけなのだから。
あちらの側から見たら、やはりすべては間違った、無批判な洗脳に映っているにちがいないのだ。
だとしたらやはり、教育も洗脳もその実、ただの用語の違いにすぎない。
その本質はどちららも同じ、ただのすりこみの過程なのだ
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今こうして、もう人生も終わろうかという歳になって、つくづく考える。
格別飢えることもなく、争うこともなく、穏やかに生きてきた。
人はきっと、それを幸せと呼ぶのだろう。その意味で小学校の教えは、やはり正しかったとも言える。
だが同時に、そこにはいささかばかりの、苦い無念が残らないでもない。
そうだった。
こうして退屈で、輝きのない、無意味な日々を暮らしながら。
「大義のために赴け」と、誰にも教わらなかったことに、やりきれない痛恨がいつまでも付きまとうのだ。――
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