議論には必ず悪魔も加えよ――devil’s advocateとは

 devil’s advocate という言葉を、ご存じだろうか。

 適当な日本語が見当たらないが、逐語的に訳せば「悪魔の代弁者」ということになる。

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 複数の人間が、それぞれの立場で議論を戦わせる。
 丁々発止のやりとりの過程で、問題点があぶりだされる。テーマが吟味され、深まっていく。
 最後にどちらの主張が選ばれるにせよ、それは初めの姿とは違う。子細な検証に裏打ちされた、強固な結論となっている。
 あるいはどちらの主張も不十分で、その中間の折衷の中に、新な真実が見つかることもある。

 大切なのは、視点の違いである。いくつかの違う角度から光を当てて、初めて立体的な像が結ばれる。物事の本質の姿が、見えてくるのである。 

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 確かに、それが健全な議論だった。

 ところがときどき、参加者の考えが偏って、初めから重なってしまうことがある。
 全員一致なのだから、それが真実に決まっている。ついすぐに、飛びつきたくなる。
 だがちょっと待てよ、もう少し考えてみよう。
 全員が同じ方向を見ているとしたら、逆に全員が、間違っているのかもわからない。誰一人気づかずに、まったく見落とされた、別の可能性があるのかもしれない。 

 そんな危険を避けるためには、――議論の偏りを正すためには、異論を唱える者の存在が、どうしても必要なのだ。
 そんなとき参加者の一人が、反対者に指名される。
 神様ばかりがそろってしまった議場にあって、悪魔の声にも耳を傾けるために、自らその代弁者(devil’s advocate)の役割を買って出るのだ。 

 そうして、あえて知恵を絞って、反対尋問を組み立てる。
 それは元々の、彼の意見とは違う。むしろ持論を捨てて、役者が舞台で他人を演じるように、論敵を演じるのだ。
 それ(devil’s advocate)はあくまでも、健全な議論のための装置だった。軽々しく飛びついた結論とは違う、――議論を尽くし、あらゆる対立を克服した、本当の真実に到達する。
 そのために考案された、いわば哲学的な手続きなのだ。

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 私もこのブログで、その役割を買って出る。
 時代の大勢があまりにも、一方向に傾いたとき。悪魔の代弁者として、異議をさしはさむ。
 そうすることで、忘れられたもう一つの別の視点を、提示してみせる。世界を正しく照らし出して、その全体像をしっかりと捉えるために。
 本当の真実にたどり着くために、それはどうしても必要な機能なのだ。

 世の中が差別だとなじれば、そうではないと弁護する。だがしかし、もし世間が弁護の側に回れば、私はまたその欺瞞を、あばこうとするだろう。
 私の見解はいつでも、その逆の方向に、変幻自在に形を変える。

 その姿はあるいは ひねくれ者の天邪鬼に、映るかもしれない。
 だがその実、それらのどれ一つとして、私自身の――私個人の信条ではありえない。
 あくまでも議論の便宜のために、仮に提言されたもの。ただ止揚を待つ、半措定であるにすぎない。

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 世の中が差別だとなじれば、そうではないと弁護する。――
 たがしかし私はただ、仮面をつけて悪魔の役柄を、果たしているだけなのだ。
 そのどれ一つとして、私自身の信条ではない。何一つ私の、本当の素顔ではない。

 仮面の向こうの素顔の私は、けっしてそんな、僻んだ心の持ち主ではない。
 本当の私はもっとずっと常識的で、純朴な、――きっと誰からも愛される、心やさしい 人物なのだ。

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 んなわけないけど(笑)

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