自殺を止めるな(1)

 自殺をしようとした人を助けると、警察から感謝状が送られるそうだ。人命救助に貢献した、と。

 だが、ちょっと待てよ。
 本人は死にたがっていたのを、無理やりめるのが、「助ける」ことになるのか? 警察はともかく、止められた本人は、本当に感謝しているのか?
 勝手なまねをしやがって、と舌打ちする者はないのか?

 生きることを選ぶか、死ぬことを選ぶか。
 そんな究極の決定の権利は、いつでも私たち自身にある。
 外野の人間がとやかく言って、口を出すのは、自由意志 の侵害に他ならない。

 それどころではない。「生きたいのに殺す」のが殺人罪なら、「死にたいのに生かす」のも同じくらい、重罪なはずだ。
 感謝状どころか、死刑に処してもいいくらいの、横暴なのだ。 

     *

 キリスト教だけではない。古来多くの宗教は、自殺を罪としていた。
 そのことはとりわけ、為政者たちに都合がよかった。
 それはそうだろう。
 生きるのが辛いからといって、百姓たちに次々と自殺されては、王侯貴族の贅沢な暮らしは成り立たなくなってしまう。

 食うや食わずで、働きづめの地獄の日々。それでも教会の教えが、命を絶つことをためらわせる。
 そうすることで、生かさず殺さずの百姓たちから永遠に、絞れるだけ絞ることができるのだ。
 ニーチェがキリスト教を 、「奴隷の道徳」と呼んだのもむべなるかな。

 時代が下って、資本家たちの世となっても、話は変わらなかった。
 太鼓腹で葉巻をくわえた彼らが、食い物にする奴隷たち――労働者たちは、けっして自殺してはならなかった。
 そのためにあの手この手の、巧妙な洗脳が続けられたにちがいない。

 自殺者が落ちる地獄を描いた、地獄草紙。そしてその逆の、生の賛歌。―― 
 橋の欄干に手を掛けながら、思いとどまる物語が繰り返された。
 そうして積み重ねられた、いわば文化的な禁忌のようなもの。私たちをすくませ、ためらわせているのは、確かにそんな無意識の呪縛だったにちがいない。

     *

 そして今のこの時代。迷える者たちが聞かされる説教は、いつも決まっていた。
 家族はどうなるんだ。後に残される者の、気持ちになってみろ。――

 だがしかし、私たちはただ「残される者」たちのために、生きなければならないのか。
 もしそうだとしたら、それは彼らの、奴隷であることと変わらない。
 かつて王様のために、資本家のために生きたように。ただ「残される者」のために、永遠の痛苦に耐え続けなくてはならないのだ。

 それはけっして、そうであってはならない。
 私たちの人生は、他の誰のものでもない。
 それにまつわるすべての決定は、私たち自身の手の中になくてはならない。
 そしていったん決断が下されたら、その真摯な結論を、誰も詰ってはならない。

 誰も――とりわけ「後に残される者たち」は。もし彼らが本当に、「去り行く人」を愛しているのなら、悲しむことはあっても、けっして嘆いてはならない。
 笑顔とまでは言わなくても、少なくとも最敬礼で 送り出す思いやりと、覚悟を持たなくてはならない。――

     *

明日に続く)

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