わが国には古く平安の時代から、御霊信仰と呼ばれるものがあった。
非業の死を遂げ、恨みを残した者の霊が怨霊となり、祟りを行う。
それはただ、直接の敵に対してだけではない。国全体に戦乱や、疫病などの災いをもたらすと信じられた。
死霊を鎮め、悪難を避けるために、様々な儀式が執り行われた。
たとえば日本三大怨霊(注)とされる菅原道真の場合、その祟りを恐れて北野天満宮が建立され、道真の魂(御霊)を神として祀ったのである。
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だがそれは必ずしも、怨霊の祟りだけではない。
広く死者の魂全般に、特別な力を認めて畏怖すること――それはわれわれ日本人の文化と精神の根底を、現在に至るまで支配する感覚であるにちがいない。
たとえば自分の生家には「仏壇」と呼ばれるものがあったが、祀られていたのはホトケではない。父はもっぱら「ご先祖様(祖霊)」に、家族の安寧を祈っていたのである。
あるいはたとえば大きな野球の大会で、不幸にして亡くなったチームメートの遺影を、ベンチに持ち込む。
一緒に甲子園に来たかった、見せたかった、というのがもちろん表向きの理由だ。
だが無意識のうちに、亡き友の励ましに力を借りている。そんな気持ちも、なしとはしないだろう。
対戦相手もまた、戦いづらい。別に祟りを恐れるわけではないが、遺影の視線にはやはり、何か圧伏するような力を感じざるをえないかもしれない。
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安倍前首相の国葬問題も、この文脈で捉えることができる。
国葬を執り行った側には、もちろん政治的な意図も垣間見られた。だかしかし、道真公を祀ったのと同じ感性が、働いていたこともまた間違いない。
少なくとも国葬反対の声が、いま一つ盛り上がらなかった原因はそこにある。
「森友加計問題 」をあげつらい、専横と右傾化の政治を総括する声も、確かにあるにはあった。だがそれもただ、死者の悪口を言うなんて、とかえって顰蹙を買うだけだった。
「人は死んだらみんな仏様になる」と説く者もいる。「死屍に鞭打つな」は『史記』の故事が由来だが、これほど日本人のメンタリティーにしっくりくる表現もないのだろう。
つまりは御霊に毒づくような、冒涜は許されない。不謹慎きわまりない、というムードが、少なくとも当座は国中を支配していた。
もっともその後に判明した「旧統一教会問題」のあまりの根深さに、禁忌は一気に破られた。
堰を切ったように安倍批判が奔出したのは、ご承知の通りである。
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死者が祟りの主体となりうる。――だとしたらもちろん、「死」はおぞましいものである。おどろおどろしい世界であり、忌まわしい領域であると意識された。
それは単に、誰でも死ぬのがいやだ、という意味ではない。そもそも死とかかわることも、語ることさえはばかられた。
死穢(しえ)という言葉があった。死とは穢れたものであり、その穢れはまるで伝染病のよう、人から人へ移っていくとされた。
何らかの清めの儀式を、伴なわないかぎり。――
つまりは葬儀の後に塩を撒き、遺族が忌中として家にこもるのも、それゆえである。
子供の遊びの「エンガチョ切った」もまた、おそらくこの穢れの伝わりを恐れる、文化の名残であろう。
「極楽往生」などと称するものは外来の、仏教思想である。
『記紀』に誌されたような土着の死生観は、そのようなものではない。
イザナミは、亡き妻のイザナキを追って黄泉の国を訪れる。だが妻の変わり果てた姿に驚いて、たちまち逃げ帰る。
変わり果てた姿とはすなわち糜爛であり、腐敗であり、蛆であり、白骨である。
それは火葬以前の土葬、さらには風葬の時代には、ごく当たり前に目の当たりにした、「死」の素顔にほかならなかった。
そのうえ世にもおそろしい亡者となった妻は、大勢の黄泉の醜女たちとともに、イザナミに追いすがり、引き戻そうとさえしたのだ。
それは極楽往生の、きれいごととは違う。神のもとに召されるという、西欧のおとぎ話とも違う。死のリアリズムがあった。
だがしかしゴルゴン(注)の面貌を、誰もいつまでも見つめ続けることはできない。
私たちは石と化した。死を禁忌となし、逃避し、忘れることを選んだ。
物語の中の、加工された死とならば、たわむれることができる。だが生身の、むき出しの死はあまりにもおそろしかった。
それはもはや目をふたぎ、封じ込めるしかない。死を穢れとなして、語ることすらはばかった。
いわばリアリズムから出発したはずの日本人の死の観念は、まさにそれゆえに、逆にもっともリアルから遠ざかった。皮肉なまでの、現実逃避に帰結したのだ。
(話は次回に続く)
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