<フランス発>いじめっ子をブタ箱に叩きこむ

 フランスでいじめを犯罪とし、加害者に禁固刑を課す法案が可決された。(注)
 これを受けて、警察が授業中の教室に踏み込んで、手錠をかけて生徒を連行する事案が発生した。(注)

 かくあれかし。すべてがまったくもって、当然の措置である。
 法を犯せば処罰される。それが法治国家の原則であり、その原則を身をもって教え込むことこそが、教育のつとめだからだ。

 我が意を得たり、と思う。といっても、外つ国のことではしかたがない。
 我われもまた、ぜひこの手本にならってほしい、という願いをこめて。
 ちょうど一年前に、この件で投稿した内容を、これを機に再録しておきたい。

 (以下、昨11月6日の投稿)

                **

<いじめっ子どもをブタ箱に叩きこめ>

 学校の現場に取り憑いた、「いじめ」の亡霊。
 だがその実、この問題には唯一、簡単明瞭な解決策がある。

 すべてを警察の手に、委ねるのである。

     *

 もちろん仲間外れやら、無視シカトやらという程度なら、学校教育の範疇だ。
 だが話が恐喝、暴行となれば、明確な犯罪である。

 学校だけが治外法権というのは、いかにも理屈に合わないだろう。
 法を犯したら、刑務所に入れられる。それが法治国家のルールであり、そのルールをまず教え込むのが、教育のつとめではないのか。

 教師を間に介しても構わない。生徒が直接通報してもいい。
 アメリカ を始めとして、学校に警官が常駐したり、巡回したりする国だっていくらでもある(スクールポリス)。保健室に保健室の先生がいるように。それが当たり前の風景なのだ。

 ともかくも一度は、悪党どもを警察の手に引き渡す。当然初回は、起訴されないだろう。それでも刑罰の存在を、身をもって知らしめることに意味があるのだ。

     *

 法を犯したら、刑務所に入れられる。そのルールをまず教え込む。――

 もちろん、なぜそれをしてはいけないのか、教えるのはかまわない。確かにそれが、教師の役割かもしれない。
 相手の痛みを想像できる、人間を育てる。思いやりと道徳心を養う。すべて立派な心がけだ。
 だがそれは法の統治を学んだ後で、あくまでも後付けで、行われるべき作業である。
 それを忘れて、ただ能書きだけを垂れているのでは、本末転倒なのだ。 

 法の後に道徳が来る。
 それでは順番が逆だ、と思う者もいるかもしれない。だが法治国家とは、そういうものなのだ。
 道徳観の中身なんて、人によって様々である。まったく持ち合わせていない、やつだっている。
 そんな主観の産物に頼っていては、社会は治まりはしない。その代わりに、とりあえず全員が合意した、法典が支配するのだ。

 私が人を殺さないのは、痛みを知るからでも、思いやりからでもない。ただだ死刑が怖いからだ。
 そしてそれで、一向に構わないのだ。

     *

 法を犯したら、刑務所に入れられる。そのルールをまず教え込む。――
 だが今の日本では、それができない。
 警察なんて口にしようものなら、教育の敗北となじられて、教師としての良心を疑われてしまう。

 元凶と思しきものがある。
 かつて日教組という団体が、日本の教育を牛耳った時代があった。
 旧社会党・共産党系の教職員組合で、国家権力の教育への介入は許さない、などと馬鹿げたことをほざいていた。
 学生運動のアホ学生もそれに同調して、いつしか「国家」は「学校」の敵となってしまった。

 そこに「金八先生」がやってきた。その後の学園青春ドラマの、元祖である。
 この番組が教育について、ある恐ろしい幻想を振りまいた。 
 教師の情熱と、生徒との心の触れ合いが、すべてを解決すると。――

 そうだった。日教組と金八先生。この2つが勘違いの、お花畑の教育論をはびこらせ、学校現場の現実に目をふたいでしまった。
 そしてその結果が、今のこのていたらくなのだ。

 それは本当はけっして、そうであってはならない。
 正しい道は、その逆である。
 学校の外だろうと中だろうと、すべての犯罪は警察の手に委ねる。

 それはけっして、教育の敗北などではない。
 法を犯したら、刑務所に入れられる。そんな法治国家のルールを教え込む、むしろ教育の究極の勝利なのだ。

コメント

タイトルとURLをコピーしました