<ミスターシービー編>競馬に人生を重ねる

 ときどき、こんな馬鹿がいる。

 競馬のレースに、人生を重ね合わせる。
 サラブレッドたちに、人間の姿を投影する。
 勝手に感動のドラマをでっち上げて、涙ぐんでいる。

 そんな愚かしい競馬ファンて、けっこうたくさんいるものだ。
 というよりも、スポーツ中継やらのマスコミが、報道を盛り上げようとよく使う手口だ。
 血統とか言っているのも、たいていそうだ。
「ダービー惜敗の父の無念を晴らす」なんて、笑ってしまう。

 競走馬が父親の顔なんか、知るわけがない。
 ましてやその過去のレース振りなんて、知ったこっちゃないのである。

     *

 その昔、「ミスターシービー」という馬がいた。
 史上三頭目の、クラシック三冠馬である。
 シービーを「超」が付く人気者としたのは、その燦然たる成績ばかりではない。
 毎回見せる、後方一気の追い込み戦法が、鮮やかに映ったのだ。

 あそこからではとても届くまい、という最後方の位置にいながら、ゴール前では怒涛の走りで先頭に立つ。
 もうおわかりだろう。
 みんながその姿に、「人生」を見たわけだ。

 国民人口の大半がそうであるように、競馬のファンもまた当然、そのほとんどが下級国民だ。
 生まれてこの方、うだつの上がらない人生を送っている。
 それでも心のどこかでは、いつかはこのオレだって、と思っている。
 シービーのトレードマークの、奇跡の逆転劇が、そんな彼らの夢をかなえてくれる。鬱憤を晴らしてくれる。
 ちょうど水戸黄門が、最後の最後に印籠を見せて、悪党どもをひれ伏させるように。
 世の中のしもじもの人間たちの、メンタリティーに訴えかけたのだ。

     * 

 もちろん「追い込み」とは、本当はそのようなものではない。
 何か大いなるハンディを克服して、挽回しているわけではない。
 
 それは単なる、スタミナの配分の問題だ。
 前半はできるだけ楽をしておく。力を温存しておいて、ゴール前で一気に爆発させる。そんなただの、戦法の一つなのだ。

 追い込み一辺倒の馬には、さまざまな要因がある。
 もっとも一般的なのは、気性の問題である。
 いったん先頭に立つと、気持ちが舞い上がってしまって、抑えが利かなくなる。暴走してしまって、ペース配分も何もなくなってしまう。
 そういうタイプの馬の場合は、ゴールが近づくまでは、けっして先頭に立たせない。
 たえず馬群の後ろにつけて、他馬を「壁にして」無理やり抑え込むのだ。

 しろうとのファンには、そのあたりの戦術が理解できない。
 追い込み馬の姿は、悲運に打ち勝つヒーローのように映る。
 そのころ競馬雑誌の読者欄に、こんな投稿が載った。
「騎手の毎回の出遅れを責めもせず、必死に挽回して勝利する、ミスターシービーの走りにはいつも胸を打たれる……」

「毎回の出遅れ」って、どんだけ勘違いしてるんだろう。
 それじゃあ吉永正人(注)が、あまりにもかわいそうじゃないか。
 だいたい毎回出遅れるなんてマヌケな騎手は、もしいたとしても、とっくにクビになっているだろう(笑)
       *

 ミスターシービーに次いで、翌年三冠馬になったのが「シンボリルドルフ」である。

 こちらの競馬はシービーとは逆に、自由自在である。レースの状況に合わせて、後ろからも前からも行ける。
 たいていはもっとも無難な、先頭集団の直後あたりに位置取って、4コーナーあたりであっさり抜け出す。
 まったく危なげがない。当たり前のように、ねじ伏せて勝つ。

 そんな競馬ぶりに、しろうとのファンはまたしても、人生を重ね合わせた。
 このレース運びは、小憎らしい。鼻持ちがならない。
 これじゃあまるで東大卒のエリートが、フツーに出世していい思いをしている、世の中の縮図そのものじゃあないか。
 こんちくしょう、と下層民のファンほど、ルドルフを嫌った。少なくとも同時代のシービーの方に、より肩入れしたものだ。

 そのシービーとルドルフは、実は三度対戦している。
 結果は三回とも、シービーの圧勝で、寄せ付けもしなかった。 
 何だ結局は、最後のここぞというときには、エリートが勝つんじゃないか。
 人生大逆転なんて、やっぱりはかない夢だった。
 ――と、あれほど贔屓にしたミスターシービーの惨敗ぶりに、下流国民のファンたちは、地団駄を踏み、がっくり肩を落として帰ったものだ(笑)
 (話は次回に続く)

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