私が死ぬのを恐れぬ/る理由

 私は死ぬのは嫌だが、別に怖いとは思わない。医者からあと何年、と告げられたって、特にあわてふためきはしない

 だって、考えてもみたまえ。ありきたりのセリフだが、人間みんな、いつかは必ず死ぬのだ。
 そういう意味では誰もが、生まれた時から「手遅れ」であり、不治の病を患っているのだ。
 よく「日本人男性の平均余命は〇〇歳」とか言うだろう。数字こそ大きいが、あれはおぎゃーと生まれた赤ん坊に、いわば余命宣告をしているわけだ。

 あまつさえ俺なんかもうこの歳だから、別に病気にならなくなって、いつ死んだっておかしくない。
 そのうえ特別な、いいことなんか何もない。生きていたって、しょうがないと言えばしょうがない。
 だから死ぬのは、少しも怖くない。

     *

 死ぬのは少しも怖くない――そう強がってみせながら、私はすぐに言い添えなければならない。それはあくまでも、一個の生物としての話だ。
 社会という枠組みの中で捉えたとき、私にも死はやはり、何よりも忌むべきものとなるのだ。

 例えば私が、今ここで斃れたとする。
 平均年齢よりはまだだいぶ下だから、社会的には当然、敗北者ということになる。そのことが、とてつもなく恐ろしいのだ。
 まだお若いのに、と憐れんでもらえればいい。だが私の場合、まずそうはならないのだ。

 私の訃報を聞くや、誰もが高笑いする。
 あいつさんざん偉そうなことを言っておきながら、今じゃあこのざまだ、と。
 亡骸を指さして、せせら笑い、勝ち誇る奴らが大勢現れる。
 たとえ何を言われようと、もう死んじゃっているから、言い返すこともできない。棺おけの中で、やられ放題となる。
 すべては不徳の致すところとはいえ、これじゃあとてもじゃないが、成仏できない。

 彼らの満面の笑顔が、今からもう目に浮かぶ。――だからそんな事態だけは、絶対に、何をおいても避けなければならない。
 だから私も、死ぬのが怖いのだ。
 どんな手を使ってでも、奴らよりは一日でも、長生きしなければならない。
 そうして全員がくたばったのを、ちゃんと見届けてからでないと、心配で死ぬに死ねないのだ。

 だから少しでも寿命を延ばそうと、「なんたら健康法」みたいのを、毎日いくつも、必死で実践しているわけだ。
 われながら、すごい妄執だと思う(笑)

     *

 あいつらより先に、くたばるわけにはいかない。――

 だが、ちょっと待てよ。それなら別段、長生きでなくてもいい。
 たとえば何か、世界が全部滅びてしまうような大異変でも起きて、みんな一緒に死んでしまうなら、それでもかまわない。
 全員同時なら、負けたということにはならない。そもそも俺をせせら笑う奴らも、いなくなってしまうんだから、関係ない。

 そうだ。それにしよう。
 プーチンあたりがとち狂って、アメリカと核ミサイルの応酬になって、地球もろともみんなふっ飛んでしまえばいい。
 そうすればもう、面倒くさい健康法なんて、しなくてもすむ。

 そんな私の自暴自棄を、狂気となじる者もいるだろう。
 だがうだつの上がらぬ、負け組と呼ばれるような連中は、みんなだいたい同じような気持ちだと思うよ。
 たぶんね(笑)

     *

 地球もろとも――
 そういえば昔、源氏の武将か何かで、「みなもとのもろとも・・・・」とかいうのがいなかったっけ?
 いるわけないか。
 いかにも差し違えそうな、名前だと思ったのだが(笑)

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