天皇はうやまわない

 天皇は日本国の象徴だから、全員でうやまうべきだ――もしそう考えている者がいたとしたら、大変な勘違いである。

 確かに憲法は、その第一章を天皇に割いている。第一条に「天皇は、日本国の象徴であり…」とある。
 だがそれはけっして、天皇を持ち上げるためではない。むしろその逆なのである。

 現憲法の前身である明治憲法(大日本帝国憲法)は、やはり第一章を天皇に割いていた。そこで天皇の主権と。統治を謳っていた。
 そんな旧憲法と対照するために、そしてその主旨を否定して、国民主権の理念を突き付けるために、新しい憲法の一章を当てたのだ。
 それは象徴だから敬うべきだ、という議論ではない。象徴にすぎないのだから、これまでのように政治を差配することはできない、と声を大にして訴えているわけだ。 

 第一章第一条を、最後までしっかり読んでみたまえ。
「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」
 主眼は前半ではなく、むしろ後半部にある。象徴にすぎない天皇に代わる、国民主権を高らかに宣言しているのだ。
 天皇・皇族をうやまうべきだ、というような文言は、いささかも見つかるものではないのである。

     *

 憲法に加えて、歴史の誤読もある。

 天皇は歴史を通じてずっと、日本の国民にうやまわれてきた――もしそう思い込んでいるとしたら、 それもまた大きな見当違いである。
 確かに鎌倉以来の武家政権においてさえ、天皇はずっと権威のよりどころであり続けた。だがそれはあくまでも政治の、ごく上澄みの部分だけの話だ。
 国の大半を占める一般の庶民が、天皇を仰ぎ見ていたのか? そもそもその存在すら、意識していたのか?
 ご近所の近畿はいざ知らず、東北や九州の農民たちは?
 ましてや北海道や沖縄は、まだ同じ日本ですらなかったはずだ。

 国民の大半が天皇を戴くことを始めたのは、明治以降の大日本帝国の時代である。そんなせいぜいここ二百年足らずのあり方をもって、日本の伝統であると、文化であると言いなすのは、とても正当とは言いえない。 
 そもそも「日本会議」にしろ何にしろ、わが国の保守派が懐かしみ、理想とする「日本」とはこの明治日本のことである。
 天皇・靖国は言うまでもなく、家父長的な家族制度にしても、夫婦同姓にしても。
 すべては直近の時代を懐かしむだけの、戦前回帰の復古主義なのだ。

     *

 第二次大戦の敗北によって、日本の旧体制は完全に、否定されるべきものとなった。
 日本の民主化は、喫緊の課題だった。
 そのうえ連合国側の議論の過半は、天皇を戦犯として起訴しろ、というものだ。当然のことながら、天皇制の存続など、ありえるはずもなかった。

 だがしかし、これまで天皇を神とあがめていた国で、いきなり制度をひっくり返せば、大混乱をきたす。占領軍による統治も、困難になる。日本サイドもまた当然、温存を強く希望していた。
 そこで浮上した名案が、象徴天皇制だったのだ。
 天皇そのものは従来通りに置きながら、飾り物にすぎぬものとして実権をはく奪し、無害化を計ったわけだ。

 それはいわば、国体の連続性に配慮したもの。連合国の合理主義と、日本の戦中派のメンタリティーに折り合いをつけるために編み出された、妥協の産物にすぎない。
 まかり間違っても、象徴である天皇を尊崇し、うやまうことを強いる、不磨の大典ではないのである。――
     *

(話は次回に続く)

コメント

タイトルとURLをコピーしました