(話は前回から続く)
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またたとえば、同じような誤解は、受験業界の内部でも起こる。
理Ⅲの、あるいは医学部の現役の学生が、講師として採用される。
理数科目だけではない。ときには英語を教えることもある。
理Ⅲに合格したくらいだから、どんな科目でもお手のものだろう、というわけだ。
とんでもない、勘違いである。
「入試に合格した」人間は、「入試で満点を取った」わけではない。ただ志願者の中で、比較的高得点であった、というだけである。
「合格者最低点」という言葉がある。合格者の中で最下位で、ぎりぎり合格した人間の得点だ。このデータを比較することで、科類ごとの入りやすさが判断されるのだ。
理Ⅰや理Ⅱの最低点は、550点満点中330点近辺(6割程度)。
理Ⅲは390点近辺(7割程度)。
この数字をもって、理Ⅲが最難関と呼ばれているわけだが、逆に言えば7割しか正解できなくても、理Ⅲに合格できるのだ。
さらに細かいことを言えば、550点のうち110点は、誰でも満点が取れそうなセンター試験の換算点だ。
東大単独の二次試験、いわゆる「東大の入試問題」だけにかぎって言えば、6割5分で理Ⅲに入れる。
別に全員がそうだというつもりはないが、その程度の学生も、「理Ⅲ」の肩書を頂戴するわけだ。
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さて、入試で6割5分しか得点できない人間が、3割5分も失点した連中が、その問題を解説できるだろうか? もちろん、できるはずもない。
教壇に立つためには当然、満点の得点が必須である。
そればかりではない。「解ける」ことと「教える」ことの次元の違いを考えれば、満点ですら足りないのだ。
その先のもっと深い理解と、洞察を持ち合わせていなければ、本当は教師などとは呼べはしない。
満点取って理Ⅲに入った学生など、たぶん一人もいない。
本業は医学の学生なわけだから、その科目の「もっと深い理解」など、もとより望むべくもない。
てことは、理Ⅲの学生のアルバイト講師なんて、本当は教える資格なんか、これっぽっちもありはしないのだ。
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そういう物の道理が、世間知らずの受験生にはわからない。
「理Ⅲの先生」というだけで、何か特別の、神様のような存在に思えてしまう。
尊敬する、というだけならまだわかる。中には狂信的に、崇拝してしまう生徒もいる。
たとえば同じところの英語の講師の中に、東大英文科出身の、講師歴20年のベテランがいたとする。
何しろ英文科を志望したくらいだ。もう若き日の、受験生だった時代から、こと英語の成績は、理Ⅲ志望の連中よりもはるかに上だった。
それがまた英文科に進み、専門の研鑽を積む。その後の講師経験で、さらに磨きをかけた。
当然どんな問題を前にしても、満点が取れる。深い見識も併せ持って、大所高所から解説ができる。
誰がどう見たって、こっちの方が、しろうとのアルバイト講師より上なはずなのだ。
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そりゃあ、教え方がどうの、親身の指導がどうのと、言われたらわからない。
だがこと英語の学力に限って言えば、負ける要素なんてあるはずもない。
だが理Ⅲ崇拝の生徒には、それがわからない。瞳に星を宿してしまった信者たちは、当たり前の物の道理も、現実の姿も見抜くことができない。
文学部出身なんだから、医学部より偏差値は下だ。てことは頭が悪いわけだから、きっと英語の学力も低いのだろう。
と、驚異の三段論法を駆使して、こちらの先生を見下している。
あのなあ。別に医学部が無理だから、文学部に行ったわけじゃない。やりいことがあるから、こちらを選んだだけだ。
そのうえ同じ問題で受験したわけでもないから、点数の比較はできない。こちらの方があちらよりも頭がいい可能性だって、少なくとも理論的には(笑)十二分に残っているわけだ。
そんな当然の理屈さえ、クソガキどもは理解できない。
挙げ句のはてには、
「○○先生(理Ⅲの学生)はこう教えてました」
と、まるでこちらの説明が間違っているかのような口ぶりで、ケチをつけに来たりする。
死ねばいいのに、とつくづく思う。
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きわめつきは、理Ⅲ出身の肩書だけで、飯を食ってるあいつだ。
知ってるやつは知っている、和〇〇〇という男だ。
勉強法の本みたいなのを、これでもかというように出版する。
どっかの予備校や、家庭教師センターの顧問をつとめる。
要するに理Ⅲ崇拝の教祖に収まって、大儲けしている。
霊感商法の壺を売りつける、例の新興宗教と、その本質は何も変わりはしない。
死ねばいいのに、とまたしても、つくづく思う(笑)
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