目の前に二本の分かれ道がある。
どちらの道にも、質的な差異はない。それぞれが同じ、未来の選択肢である。
だが私は道の一つに入る。
その瞬間からこちらの側は「現実」となり、あちらは選ばれなかったただの「可能性」――堅固な物質世界とは裏腹の「想念」にすぎないとさげすまれる。
だがひょっとしたら、それはそうではないのかもしれない。
あちらの道は今もなお、同質の現実として存在を続け、そこにはもう一人の自分が、確かに歩みを続けているのかもしれない。
二つの世界は本当は等価な形で、併存している。ただこちらの世界に限局された私の意識は、あちらに思いを致すことができない。ちょうどあちらの自分が、こちらをただの虚構の物語と見下して、笑い飛ばしているように。――
*
もちろん「分かれ道」というのは、あくまで一つの比喩である。
それと同じような選択は、いたるところで出現する。
サイコロの目は何が出るか。電荷は正か負か。数値はいくらか。それこそこの世の森羅万象に、そんな複数の可能性が対応する。
そのどれ一つとして、ただの虚妄の可能性ではない。たまたまこちらの道を選んだ私たちが、それを「現実」と呼びなすように。他のそうでない岐路もまた、本当は私たちの知らない裏側の世界で、もう一つの現実として成就している。
宇宙のあらゆる項目について、不確定の揺らぎがあって、そのそれぞれが並行世界を成り立たせる契機となる。
だとしたらそこには、本当は無数の宇宙がある。少なくとも宇宙は無限に重なり合った、多元世界の構造をしている。――
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こんな「多元世界」の論法は、実はけっして、狂人の妄誕ではない。
近年の量子力学の教えは、同様の示唆に満ちている。
一例を挙げてみよう。
かつて中学で、電子は原子核のまわりを、特定の軌道を描いて回ると教わった。

だとしたら当然のことながら、ある時点における電子の位置は、どこか1つの場所に特定できる。
だが「量子力学」の理論は違う。
電子はこの時点でも、原子核のまわりのさまざまな場所に位置しうる。
その存在確率を濃淡で表すと、ちょうど雲のように見える。「電子雲」と呼ばれているものがそれだ。

もちろん私たちが観察した瞬間に、電子の位置は一つに決まる。 それはまるで、スロットマシンの確定のボタンを押したように。
だがそれまでは――まだ私たちが見ていない段階では、その位置は不定のままだ。
電子雲上のA地点にも、B地点にも……あらゆる地点にそれは存在しうる。
「私たちには観察するまで位置がわからない」のではない。それでは当たり前すぎる。
「わからない」のではなく、現に電子はあらゆる位置にそれぞれの確率で、「同時に存在している」というのだ。
この現象は一見、摩訶不思議に感じられる。
だが「世界は無数に存在する」という考えを持ち込むと、実にあっさりと腑に落ちる。
つまりはこういうことだ。
電子がA地点にある世界、B地点にある世界、というように無数の世界が存在する。そして観察した瞬間に、私たちはその中の一つの世界に入り込む。
A地点にある世界に入り込めば、電子はA地点にある。他のどこにもない。当たり前のことだ。
だがそれは私たちがその世界に入り込んだから――限局され、幽閉されたから起きたことにすぎない。
もし多元世界を縦断し,鳥瞰する視点を持つならば、電子は相変わらずあらゆる地点に同時に存在しているのだ。……
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もちろん話は、電子だけにかぎらない。
あらゆる量子(≒素粒子)が同じ性質を分け持つ。それらはそれぞれの確率でどこかに存在し、その位置も振る舞いも観察されるまでは確定しない。
だが宇宙の万物は素粒子から成り立っている。だとしたら宇宙そのものも、いくつもの異なる可能性を持つ。多重世界の構造をしながら、私たちがその一つに迷い込んだ瞬間に「現実」であると感知されるだけなのだ?――
そんなふうに考えると、いろいろなことが腑に落ちてくる。
たとえば、かつて自分はこう書いた。
もしこの世のすべてが、物質だけから成り立っているとしたら、
物理の法則によって、一つの原因には必ず一つの結果が対応する。宇宙の創世のその瞬間に最初の、第一の原因があった。そこからまず、結果が生まれた。
するとその結果が、今度は第二の原因となって、次の結果を生む。そしてまた……
そんな因果の連鎖をたぐっていくことで、未来のすべてが演算できる。
万物の運命は、本当はそのときにすでに決まってた。そこにはいかなる偶然も、自由な意志も、介入する余地はない。そしてもし、私たちの脳内の意識さえ、化学物質と電気の流れの作用にすぎないとしたら。
こうして私が己れの運命を嘆くことすら、きっと太古の昔から定められていた筋書なのだ?……
だがしかし、もし量子にゆらぎがあると言うのなら。世界が多重でありうるのなら、事情は違ってくる。
堅牢な、唯一無二の現実と思えたものも、本当はそうでないこともありえた。そうではない余白が生まれた。
未来は抗いがたい定めではない。私たちはそれに働きかけることができる。
否。たとえ運命そのものは、やはり変えることができないとしても。少なくとも無碍に物思う自由くらいは、きっと許されているのにちがいないのだ。……
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※追記
「神はサイコロを振らない」量子力学の不確定を嫌ったアインシュタインは、そう言った。
だがアインシュタインは間違っていた。
神はサイコロを振る。そればかりか神の超越の次元では、六つの出目が同時に起こりうる。現に起こっている。
サイの目が一である世界も、二である世界もなんの齟齬もなく並立していて。神はその多重世界のすべての中に、間違えなく「遍在」してるにちがいない。……
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