自殺を止めるな(2)

 (話は前回から続く)

 自殺を試みる人を「助ける」。無理やり思いとどまらせる。
 だがしかし、そうして止められた本人の、気持ちはどうなのか。
 彼らは本当に、制止に感謝するのか。そうして生を押し付けることは、むしろありがた迷惑な、横暴であるとは言えはないのか。

     *

 しばしば耳にする理屈は、次のようなものである。
「でも、自殺を止められた人は、みんな後になって感謝する。やっぱり生きていてよかった、と口をそろえる。――」

 「みんな」かどうかは知らないが、確かにそういう人たちも、少なくはないだろう。
 自殺の名所に足を運んでも、中途半端な覚悟で迷っていて、内心止めてくれるのを待っている。
 そういう人たちなら、誰かが止めれば感謝するだろう。あるいは誰も止めなくても、自ら思いとどまったのにちがいない。

 だがしかし、本気で死に向き合った人の場合は、どうなのか。本当に彼らもまた「みんな」、止めてもらったことを感謝するのか。
 百歩譲ってもしそうだとしても、彼らの言葉はけっして、真に受けることはできない。
 それはそうだろう。
 何しろ彼らは、まだ一度たりとも、実際に死んだことなどないのだ。
 死の何たるかを知らぬ以上、生が死よりすばらしいなどど、本当に言い切ることはできない。両者を比較対照して吟味する、科学的なプロセスを、決定的に欠いているのだ。 

 彼らにそう言わしめているものは、ただ私たちを縛る、あの無意識の禁忌だった。
 あるいは、神々が動物たちに組み込んだ、本能的な死への畏怖? あるいは、穿った見方をすれば、「助けて」くれた人に対する申し訳なさ?
 いずれにしても、すべては眉に唾を付けて、うかがわなくてはならない。

     *

 私は今のところ、自殺を望んではない。
 けっして幸せな人生ではない。むしろさえない、退屈な毎日ではあるが、苦痛に耐えがたいというほどではないからだ。

 だがしかし、しかるべきときが来たら、私も自ら命を絶つつもりである。 
 しかるべきとき――つまりは心身が、この上なく衰えたとき。死病に侵されたとき。その他もろもろ、明確に終わりが予感されたとき。
 そのときにはただ死を待つことなく、自らの手で、スイッチを切りたいと思う。

 それはたぶん、私の最後の意地である。
 定められた寿命を待つことは、――定められたように生き、定められたように死ぬことは、神々の奴隷であることにほかならない。
 たとえこれまではそうであったとしても、最後くらいは、自分の意志で選び取りたい。

 そうして自由の、証を立てたい。
 何もかもそんなに、勝手に決められてたまるものか。いつまでもお前らの、言いなりになるつもりはない。ざまあみやがれ――と、うそぶいてやるつもりである。

 だがしかし、ひょっとしたら。
 だがしかし私がそうして天寿を拒み、自ら死を選ぶこと自体が、ひょっとしたら神々の企んだプログラムにすぎないのかもしれない――そんな皮肉な疑念もまた、ふと頭をよぎらないでもない。……

     *

明日に続く)

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