江戸時代の農民は収穫した米の半分を自分たちの食糧に当て、残りの半分は年貢として、領主に納めることを強いられた。
このことを称して「五公五民」と言う。
歴史の教科書に登場するこの古い用語が、最近にわかに注目を集めているらしい。
私たちの給与所得から、税金と社会保険料が差っ引かれる。両者を合わせた徴収の割合を「国民負担率」と呼ぶ。
その数字が五割(国民平均)に近づきつつある。つまりは給料の半分は国に持っていかれる。これじゃあ江戸時代の百姓と同じじゃあないか、と皮肉られているわけだ。
だがそんな批判は、まるっきり見当外れだ。なぜなら税金と年貢とは、まったく本質が異なっているからだ。――
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過去の時代、支配階級は自分では何一つ生産しなかった。百姓たちの作った米をかすめ取って、その食に当てた。
年貢は侍たちを養ったのだ。
将軍・大奥の贅も、古くは王侯貴族の豪華絢爛な暮らしも、みんな百姓の血と汗を搾り取ったものにすぎなかった。
では私たちの現在の税金は、一体誰を養っているのか?
とりあえず、そのような存在は見当たらない。
もちろん豪勢に暮らす連中はいる。だが彼らの富の源泉は、もちろん税金にあるわけではない。
そこには「労働搾取」という、巧妙な仕組みがある。
たとえばあなたが会社に行って、月50万円分の仕事をする。そのうちの30万円が給料として支払われ、残りの20万円はピンハネされて彼らの懐に入る。
そのようにして集めたお金で、彼らは豪邸に住み、自家用ヨットでクルージングを楽しんでいるわけだ。
私たちの労働を「搾り取って」いるわけだから、その本質はそれこそ年貢の取り立てと変わらない。
つまりは年貢と置き換わったのは、この資本主義社会の、収奪の仕組みそのものだった。
もちろんそれはそれで、けしからんと思う。だが少なくとも、国を介して集められる税金とは全くの別物なのだ。
では私たちの税金は、一体誰を養っているのか?――
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税金の使い道として、すぐに思い浮かぶのは何だろう?
道路を整備したり。図書館や学校を建てたり。あるいは私たちを守ってくれる、国防の費用もある。……
だが意外なことに、最大の(約3分の1)支出は実は「社会保障費」である。つまりは医療や、年金や福祉の費用の多くを、国が肩代わりしているわけだ。
[注:公的年金であれ、健康保険であれ、各自から集めた掛け金だけではまったく運用できない。その不足分(前者の2分の1、後者の3分の1)には税金が投入されている]
だとしたら税金は、私たち国民を養っている。――
もちろん年収数千万の上級国民にとって、それは「余計なお世話」である。彼らは国の支援なんてなくても、自分の財布で全部まかなうことができるからだ。
だが低賃金でこき使われる、下級国民の場合はそうはいかない。公共サービスも社会保障もなければ、とうてい生活は立ち行かない。
つまりは結局のところ、税金はオレたち下級国民を養っているわけだ。
[注:もちろん慈善心からではない。不満がたまった貧民が、反乱など起こさないように]
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自分たちから取り立てた税金で、自分たちを養う? それじゃあ理屈に合わない、と思うかもしれない。
だがそこには、「累進課税」というありがたい仕組みが隠れている。
たいていの税金は、収入が多い人ほど高い税率を課せられる。「額」が増えるだけでなく、「率」まで大きくなっていく。
たとえば年収が百万円というような、本当の困窮世帯は所得税が免除になる。払いたくても払えないからだ。
そこから収入額に応じて、少しずつ税率が上がっていく。中間層なら年収の1割から、2割の間に収まるだろう。
だがその先の高額所得者になると、数字がとんでもなく跳ね上がる。最高では年収の半分強が、税金で持っていかれる仕組みである。
[注:所得税だけで半分が消える。他の税や社会保険料を合わせれば、それこそ「八公二民」の世界になる]
一方、税金からの受益は、金持ちも貧乏人もおおむね均等である。
だからオレたち下級国民は、払った税金以上の公共サービスを受ける。つまりは得をしているわけだ。
逆に上級国民の方は、ぼったくられて大損をしている。徴税という仕組みを通して、上級国民が下級国民を養う構造なのだ。
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だとしたら。税金などなければいいのに、と本当に願っているのはヤツらの方なのだ。
そうなれば年収の一億円を、まるごと散財できるわけだから。
そんな物事の本質を、見誤ってはならない。
ポピュリスト政治家たちの主張する「減税」で、高笑いするのもアイツらだ。
五公五民の「公」は、今では王侯貴族のことではない。
それは間違いなく、国民全体の集合であり――中でも、安月給でいつもピーピー言っている、オレたち下級国民のことなのにちがいない。……
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