法治国家の原則を、確認しておこう。
法律以外何ものも、人を裁くことはできない。どんなにうさん臭い野郎でも、法律に違反していないかぎり、ただの善良な市民の一人なのだ。
罪を犯したから、会社を首になる。芸能界を追い出される。社会的に葬られる。――完全に筋違いだ。国家以外の何ものも、刑罰を課すことはできない。
刑を終えた者、罪を償った者は、もはや犯罪者ではない。不起訴とされた者は、前科者ですらない。
何一つ後ろ指さされる、筋合いはない。堂々と、胸を張って生きればいい。
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「法律的には問題はなくとも、道徳的には許されない」とかいう言いぐさが、そもそも間違っている。
倫理観の中身なんて、人によって様々である。そんな主観の産物に頼っていては、社会は治まりはしない。
その代わりに、とりあえず全員が合意した、法典が支配する。それこそがいわば、最大公約数の道徳として、機能するのだ。
曖昧模糊とした道徳律は、しばしば恣意的に運用される。そんな危険を避けるために、明文化された法を整備したのだ。
感情に、とりわけ遺恨に突き動かされる道徳はときに恐ろしい、盲目の意志となって蛮威をふるう。
魔女狩りも、ギロチン合戦も、人民裁判も。みんな多数派の道徳の、暴走がもたらした所業だった。
そんな愚を繰り返さないためにも、理知的な議論に基づく、法治を宣言したのだ。
法律だって、間違えることがある? だったら改正すればいい。
正統な議論と正規の手続きを踏んで、たえずよりよい姿を求めて変容する。それが法律のすばらしいところだ。
むしろ改定のきかない、硬直した道徳の中にこそ、恐ろしい悪魔が棲んでいるのだ。
法律だけでは不十分だ? だったら法律そのものを、強化すればいい。
そんなものでは、罰し足りないとばかりに、世論が制裁を加える。とっくに刑期を終えた者を、再犯の恐れがあると監視する。
だとしたら、まったくのお門違いだ。法治の原理が、少しもわかってないんだ。
出所がまずいというのなら、刑期を延ばして刑務所に、閉じ込めておけばいい。その代わりいったん自由の身にしたら、もはや余計ないちゃもんはつけないことだ。
厳罰化には反対しないよ 本当に魂の殺人だというのなら、死刑にすればよい。万引き一つで、無期懲役でもかまわない。法律でそう定めているのなら、それでもいいと思う。
ただそれをせずにいて、法律以外の何かで補おうという、その発想がどうにも我慢でききない。
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法律にさえ引っかからなければ、何をしてもいいのかよ? その通りである。それこそが自由社会の本然なのだ。
網の目をくぐり抜けるというのなら、網の目を繕えばいいだけの話だ。
網が捕らえることのできぬ以上、道徳などという得体の知れない代物に、私たちの自由意志は、何一つ指弾されるいわれはないのだ。
「道徳」はしばしば、「世論」と同一視される。
だが世論は必ずしも、正義であるとはかぎらない。
それはしばしば、間違いを犯す。なぜなら世論の担い手は、愚昧な多数派の民衆だからだ。
少なくともそれは、理性的な議論とは違う。
大衆の時々の気分が、気まぐれな感情が醸し出した、ただの時代の雰囲気であるにすぎない。
というよりも自分に言わせれば、世論なんて正しかったことなど、歴史上ただの一度もない。
それどころか人類の犯したすべての愚行は、世論が主導した、少なくとも後押ししたものばかりなのだ。
たとえば600万のユダヤ人の大虐殺は、ヒトラーという、悪魔の仕業だと思うかい?
それは違う。ヒトラーは、選挙で選ばれた。誰もがその演説に喝采し、熱烈な歓呼で迎え入れた。 だとしたらドイツの国民の、多数派の世論がそれを望んだのだ。みんながあいつを担いで、そうなさしめたのだ。
多数派が、少数派の抹殺を議決する。多数決なんだから、それができる。それが正義で、民主主義というものだと、信じて疑わなかったのだ。
もちろん多数派の大衆の希望を――メンタリティーを反映させるのはいい。きっとそうすべきなのだろう。それが民主主義なのだから。
だがそれはあくまでも、法的な手順を踏んだ上でのことである。
理知的な議論を介して。法理とその運用に通じた、専門家集団の助けも借りて。道理をわきまえた、冷徹な政治家に導かれて。
もしそれがなかったら、――もし大衆そのものが、世論そのものが直截に権力を握ったら、それはたちまち暗愚で、専横で、狂暴な怪物と化す。
その先に待ち構えている結末は、かくも悲惨なものなのだ。――
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(話は次回に続く)
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