亜細亜大学の高山陽子とかいう教授が、読売新聞でコメントした。
「公共空間に女性の裸像がたくさん置かれているのは日本だけ」だと。
いわば今回の撤去運動を焚きつけた、張本人なわけだ。
この「研究」に古市憲寿が噛みついた。(注)
海外だって、裸婦像はいくらでも街なかに飾られている。
そもそも国内の裸婦像数すら調べずに、印象だけで「多い」と決めつけるのは、およそ学問的な手法ではないと。
おっしゃる通りである。
自分の主張に都合のいいように事実をねじ曲げ、ときにはでっち上げる。
それじゃあ参政党の連中のやり方と、変わらないだろう。
古市程度の男に論破されている、女教授の低能ぶりにはただただ笑ってしまう。
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だが自分が引っかかるのは、そんなテータの不備よりも、むしろ「〇〇は日本だけ」という件(くだり)だ。
言うまでもなく、「他にそんな国はない」という前提から、「だから日本は間違っている」という結論は導けない。
その論法で言ったら、少数意見はすべて間違っている、ということになってしまう。多数決の原理を真理の判定にまで持ち込んだ、無知蒙昧な横暴である。
事実はまったく逆かもしれない。正しいのは実はわれわれ日本の方で、外国人ときたらみんなバカばかりだ――そんな可能性を、すっかり見落としているわけだ。
日本人は昔から、すぐに外国の事例を持ち出しては批判する。われわれは情けないと自虐する。
そんな僻んだ島国根性は、もうそろそろ捨てるころだ。もっと胸を張って、大和民族の卓越を称えてもいい。
別にSNSにとぐろを巻く、あのネトウヨのようにとは言わないが。……
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もちろんこのブログでも、しばしば外国を引き合いに出す。
たとえば「LGBTのトイレ問題」のときには、北欧の例を紹介した。かの国々では、公衆トイレもすべて男女共用だと。
だがそれはあくまで、固定観念を打ち崩すためだ。
「公衆トイレは男女別」という思い込みに、別の可能性を提示する。長年なじんだ慣習とは違う、もう一つの選択肢がありうると指摘した。
私たちはつい目の前の状況だけを、唯一の現実と思い込む。そうではない可能性に思いを致し、検討することを忘れてしまう。
「外国には〇〇もある」と教えることは、しばしばその錯覚に気づかせてくれる。視野を広げ、柔軟な思考を可能にする。
だが高山陽子の場合は違う。「外国はみんな〇〇だ」という論法は、逆にたった一つの「正解」を教条的に押し付ける。
可能性を狭め、思考を硬直化させる。要するに魯鈍の典型だ。
同じ「外国」でも、その趣旨はまったく異なるのである。
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みんなが同じ方向を見ているときに、そうではないもう一つの可能性を示唆する。
別の方向から光を当てる。複眼で物を見る。
異国についての知識は、きっとその手助けとなる。
思えばそれは、このブログの目的そのものだ。
ときには極論にも聞こえる言説も、そのための便宜でしかない。
この方針については過去投稿(「あえて悪魔のふりをする」)に詳しい。
つまりは自分は今もこうして、いわば読者にとっての「外国」であろうと、日夜つとめているというわけだ。――
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