(話は前回から続く)
人命軽視のレッテルを貼られて、石破内閣はあわてて引き上げ案を撤回してしまった。――
とにかく日本人は、この「いのち」という言葉に弱い。この印籠を突き付けられると、政治家も国民ももうお手上げで、ただひたすら「ははーっ」とひれ伏してしまう。
1977年に、日本赤軍が「ダッカ日航機ハイジャック事件」を起こした。そのとき福田赳夫首相は、「一人の人の命はこれは地球よりも重い」とのたまった。
結果、犯人の言いなりになった。約16億円の身代金を支払い、同士の過激派メンバー9人の釈放も受け入れた。
国民もそんな政府の方針に、誰も異を唱えなかった。
地球上には80億の人間がいるのに、一人の命が地球より重いというのは計算が合わない――なんて皮肉をいう外道な人間は、そのころはいなかったようだ。
*
だから何よりも人命優先で、日本の政府は犯人の言いなりになった。――
だが欧米では、それはしない。
ここで犯人の言いなりになれば、悪しき前例を作る。人質を取りさえすれば、要求が通ると思われてしまう。その結果今後のテロの再発を、助長することになる。
だから彼らは、要求には応じない。多少の犠牲は必要悪と考えて、突入して犯人を射殺する道を選ぶ。
ちょっと考えてみたらわかる。
あちらの国には軍隊があり、戦争がある。若い兵隊たちに、国のために死ねと言っているのだ。
それでいて人命が最優先、というわけにはいかない。大義のためであるならば、命を捨てることを潔しとするのでなければ、理屈に合わないのだ。
一方わが国の歴史は、ご存じの通りだ。戦後80年、ただの一人の戦死者も出すことはなかった。
日米安保とアメリカのケツ持ちに守られて、まるで奇跡のような、お花畑の平和に生きた。
敗戦と冷戦の特異な歴史が、私たちのこの特異な気風をはぐくんだ。
一人の人の命は地球よりも重い。ときに大義を捨てても命をとうとぶ。それが当たり前のように感じているのだ。
*
だが本当に、それはそうなのか?
保険財政も国家も破綻寸前の今となって、それでも「いのち」の護符は通用するのか。
これからますます医療は高度になり、治療費もさらに野放図もなく跳ね上がっていく。
極論するなら、90歳の爺さんを半年生き延びさせるために、国家予算をまるまるつぎ込む事態だって起こりうるのだ。
そうまですることが、はたして本当に是なのか。――もう一度考え直すときが来ていると思う。
そんな我々の感覚は、やはりどこか、少しズレすぎている。少なくとも世界標準ではない。
一億円の薬が必要ですと言われたら、もはや寿命とあきらめて教会に行く。まかり間違っても、誰か金を回せとわめいたりしない。それがあちらの国々では、当たり前の発想なのだ。
ところが日本人は、一億円よこせとデモ行進をする。それでいて増税はするな、保険料は上げるなと無茶を言う。……
お花畑が唱える題目は「いのち」だけではない。「権利」もまたそうだ。
戦争があると個人は「公」のために尽くす。義務を果たし、ときには命も投げうつ。
だがお花畑では、そんな図式はすっかり忘れられる。個人は「公」に対して、ただひたすら権利を主張する。
国家は――少なくとも政府は批判の対象であり、不満のはけ口でしかない。金銭面で言うなら、「ゆすり」と「たかり」で金を引き出す相手でしかない。
今回の件だってそうだ。
もちろん誰だって命は惜しい。オレだって同じ立場だったら、支援がほしいと思うだろう。
だからお願いするのはわかる。懇願するのならいい。だが何でデモ行進なんだ?
昔の人なら「世間様に申し訳ない」なんて言いながら、腰をかがめて施しを受けたものだ。
それなのに今じゃあ、ただ声高に主張し、強要する。負担の引き上げはけしからんと罵る。
まるでそれが当たり前の権利であるかのように。――そんな姿にどうしようもない違和感を抱いたのは、はたして自分だけであろうか。……
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