「超能力ブーム」の時代(2)

(話は前回から続く)

 それが超能力ブームへの、自分の反応である。
 奇跡が起こりうるという主張を――超能力の可能性を十分認めたうえで。「そんなことして何になるの?」とその無意味を指摘する。
 こういう論旨展開を「譲歩論法」という。相手の言い分を。いったん肯定してから自説に移るので、Yes-But 法とも呼ぶ。――

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 話を元に戻そう。

 たとえぱ、宇宙人にしたってそうだ。
 人類のような高等生物が、この世に生まれる確率は極めて低い。だが宇宙が無限に広いと仮定すれば、どんなに低い確率の事象でも、どこかで起きていないと考える方がおかしい。
 だから宇宙人は必ずいる(譲歩表現)。だがそれがもし、宇宙の無限の彼方にいるのなら、私たちのもとに飛来はできない。
 そして没交渉である以上、それは私たちにとっては、いないのと同じなのだ。
 ――これが自分の反応である。

 UFOの目撃譚も、けっして荒唐無稽と切り捨てはしない。
 無限の彼方にいるはずのものが、意外にも結構近くにもいて。そいつらがやって来たというだけだから、十分にありうることだ。
 目くじら立てて、 否定はしたりはしない。だがしかし(Yes-But 法)、ただそれが目の前に現れたというだけなら、あいかわらず没交渉のままだ。
 私たちに少しも影響も与えないかぎり、それはやはりただの見世物にすぎないのだから、自分には何の関心もない。
 その宇宙人が偽物だなんて、誰も言っていない。たとえ本物だとしても、本物の宇宙人が見世物になっているだけなのだ。
 そうして自分と、何のかかわりもないのなら、騒ぎ立てることなどまったくない。
 もしそこに実際戦争が始まったり、交流が始まったとしたら、そのときになって初めて、考えればいいだけのことだろう。 

     *

 手品にしても、自分の反応は同じである。

 人が手品師の手際に賛嘆するのは、それがまるで本当の奇跡のように見えるからである。
 トリックがあるのは、重々承知している。ただ驚くべき奇跡が、ありうべくもない地異が、起きているように見えるから拍手を送っているのだ。
 奇術への喝采の前提には、あくまで奇跡というものに対する、畏敬が必要なのだ。

 だが自分の場合、前述の通り、そもそも奇跡に対する感性が欠落している。
 それが本当に奇跡であったとしても、少しも驚かない、まったく関心がないわけだから、手品を喜ぶいわれなどもとよりないのだ。
 見目麗しい女性を箱の中にいれて、真っ二つに切る。それを元通りにしてみせる。まるで現実の出来事のように見せている。
 だがそれが万一、本当の奇跡だったとしても、それがどうしたの? 誰が得するの? 
 もちろん体をつなぎ合わせてくれれば、女性は助かるだろうが、それなら初めから切断しなければいいだけの話である。

 もしもこれが万一、事故現場から運び込まれたバラバラ遺体を、つなぎ合わせて生き返らせたというのなら。
 そのときは初めて、自分もぶったまげてあげましょう。
 だがあいにく、そういう手品にはまだ一度も、出くわしたことはない(笑)
 寡聞にして知らないのである。

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 寡聞にして知らない――たまにこういう、むずかしい語彙を使って、相手を煙に巻く。
 そうしてちょくちょく、ひそかにマウントを取っておく。こっちの方がレベルが上だぞ、普段から思わわせておく 。
  そうすると論争相手も、こいつにはとてもかなわないぞと、じわじわと追い込まれていく。

 これもまた、細かいながらも大切な、論破のテクニックである。
 とってもおススメです(笑)  

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