「先生」と呼ばれるあまりにも意外な職種

 自分の実家の家族は、男3人とも「先生」と呼ばれていた。

 自分はかつて教師をしていたので、もちろんそのまんま「先生」である。
 兄貴は医者であった。これもまた先生扱いをされる。
 意外なのは父親だ。これはクイズになる。

 父親は戦前の尋常小学校卒だから、学歴はゼロである。
 田中角栄のように、出世したわけでもない。役職も何もついていない。私企業ならヒラ社員と呼ばれる立場で、給料もその程度である。
 それなのに「先生」と持ち上げられ、そのうえ身分上は国家公務員なのだ(笑)
 さてこのぬえのような不思議な人物は、一体何者でしょう?

     *

 答えは何と、「看守」である。父親は某刑務所の、刑務官をしていた。

 もちろん看守が「先生」なのは、きわめて限定的な場面だけだ。
 囚人たちの前でだけ、囚人たちによってのみ、そう呼ばれて尊敬されているのだ(笑)
 まあ彼らに規律を守らせるためには、そうして上下関係を確認させることが、重要だったということなのだろう。

 父親の勤めた刑務所は、常習犯を専門に収容していた。
 常習犯の代表は、もちろんヤクザである。出たり入ったりを繰り返し、回数が増えるほどその道での格が上がっていくのだ。
 つまりは父親はヤクザたちから、日々「先生」と呼ばれて、奉られていたわけだ。

     *

 もちろんそれは本来なら、刑務所の塀の中だけの序列だ。
 だがいつしか習い性となると、人はどうしても外の世界にまで、同じ慣習を持ち出してしまう。

 ウチの父親ももまた、そうであった。
 あるとき父親が、地元の街を歩いていて、ヤクザにからまれたことがあった。
「オレたちは○○組の者だ」
 相手は代紋を持ち出して、イキがって威嚇してくる。
 だがそんなことで、父親はひるむはずもない。かえって
「ヤクザが怖くて看守が勤まるか。ふざけんな!」
 と一喝してやった。

 そのあまりの剣幕に、二人組だったヤクザの方が気圧されて、すごすごと退散してしまった。
 考えてみれば塀の外まで、ヤクザが看守を恐れなければならない理由はない。
 だが人間というものは、相手の本当の力にビビるのではない。虚勢にビビるのだ。強気に出た方が勝ちなのだ。
 父親は平生の勘違いのために、すっかり上手に出ていた。だとしたら役割上、あちらはもはや下手に回るしかなかったわけだ(笑)

     *

 父親がヤクザを恐れないのには、もう一つ理由があった。

 当時の暴力団などは、その由緒はともかく、たいていは戦後の混乱期に勢力を扶植したものだった。
 父親は昭和4年生まれだった。つまりはヤクザの親分や幹部連中は、ほぼ同世代の人間だったのだ。
 前述の〇〇組とは違うが、実際父親の小学校の時の悪友は、某暴力団の組長をしていた。

 だとしたらヤクザに対して、後の世代が抱くような恐怖心などあるはずもない。
 親分とかなんとか偉そうに言ったって、「なんだ、近所の○○ちゃんじゃあねえか」という感覚が、きっとどこかにあった。
 ましてやその子分どもをや、というわけだ。――

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<追記>
 今年2月、法務省から全国の刑務所に通達があった。
 この春から、受刑者たちの扱いを改めるべし、と。(注)

 従来の囚人の呼び捨てをやめて、すべて「さん」付けとする。
 あわせて職員の側の「○○先生」も廃止し、こちらも「○○さん」と言い合うというのだ。

 人権意識だかコンプライアンスだか知らないが、隔世の感がありすぎる。
 このぶんだと、そのうち連中ヤツラを「お客様」と呼び始めるにちがいない。
「お客様方、ようこそまたお越しくださいました」みたいに(笑)

 犯罪者なんだから、もっとちゃんと「思い知らせてやる」方が、いいんじゃないのかねえ(笑)――

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