日本国憲法はその第25条で、文化的な生活を保証する。
そのことをもって、様々な無茶な要求がなされる。
生活保護で大学に通わせろ。障害者でも旅行ができるように、無人駅を廃止しろ――等々がそれである。
それらのすべては、きっとこの「文化的」なる言葉への、誤解に基づいているのだ。
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言葉の意味するものは、状況によって――時代によっても、様々に異なる。
確かに今の私たちにとって、「文化的」とは、そういうことかもしれない。高等教育を授かったり、芸術にたしなんだり、レジャーを楽しんだりするわけだ。
だがしかし、かつての時代はそうではなかった。この憲法を定めた当時は、けっしてそうではなかったのだ。
そのころ、まだ焼け跡だらけの戦後日本で、多くの人々は家もなく、野良犬同然の暮らしを送っていた。
そんな悲惨な光景を見据えながら、憲法はそうでない生活のことを、文化的と呼称した。
屋根のある家に住んで。水道が出て。トイレがあって。電気がついて。――そんな野獣たちとは違う、人間らしい暮らしを念頭に置いて、条文が書かれたのだ。
かつて1950年代に、「文化住宅」と称する住宅が、各地に建造された。
何のことはない。各戸にトイレと、台所がついているというだけの、風呂なしアパートである。今日日ならきっと、貧乏臭いと敬遠されるにちがいない。
「文化的」とは、ただそういうことだったのだ。
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憲法が保障するのは、そのような「文化」だった。
25条を仔細に見てみたまえ。
その一項では、「健康で文化的な最低限度の生活」とある。
つまり文化的であるとは、「健康」と同じレベルの状態だ。命をつなぐのに欠くべからざる、「最低限度の」要件だけを、指しているのだ。
またそれは、その二項に登場する、「公衆衛生」とも同義である。
それはけっして、こじゃれた格好をして クラシックのコンサートに出かけるような、貴族的な楽しみを意味しているわけではない
もちろん、もし可能であるならば、その方が望ましい。今現在の私たちが文化と呼ぶような、高尚な精神的な充足を、すべての国民にもたらしたい。
だがそれは、少なくとも現段階では、かなわぬ夢なのだ。
国家であれ、社会システムであれ。すべての構成員に、中流以上の生活を可能にするだけの、資力は今のところまだない。――
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広く世間を、見渡してみてください。
寝る間もないほど働きづめで、それでも今日明日の食事にすら事欠くような、困窮世帯がいくらでも見つかるでしょう。
あなたたちの満足のことよりも、彼らの苦境を救うことの方が、まず先決なのです。
わたしたちはけっして、お金のあり余る、富裕の国ではありません。
一流国のふりを続けてはいても、実態はそうではない。
財政は目の玉が飛び出るような借金を抱えて、見て見ぬふりの貧困に満ち満ち満ちた、せいぜい中流の国家なのです。
もしもこの先、この社会がもっとずっと豊かになって、飢えに怯える民が一人もなくなるときがあったとしたら。
そのときは生活保護で、大学に通わせましょう。無人駅にも、人員を配置しましょう。
だがそのときまでは。
ただ今日のご飯を食べられることに感謝して、手を合わせていただくよりない。残念ながら、ほかに仕方はないのです。――
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