医学が進歩して、昔なら治らない病気も治るようになった。
だがその分、薬の値段も高くなった。
ついこの間、一回投与三千万円の薬が出た。と思ったら、次は一回一億円というのが保健適用されるらしい。
そんな大金とても払えないよ、と言うかもしれない。だが心配いらない。
保険が利いて患者負担は3割、高齢者なら1割――それでも大変な金額だが、実はその先に「高額療養費制度」という、とっても結構なものがある。
ざっくり言うなら、1か月の治療費の支払いが十万円を越えたら、その分は健康保険が全部面倒を見てくれる。
たとえそれがいくら高額であっても――つまりはたとえ一億円の薬を使ったとしても、患者の負担は上限の十万円で、残りは知ったこっちゃないというわけだ。
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何というありがたいことだろう。
そんな制度まであるなんて、日本てやっぱり、すばらしい国じゃあないか。
だがちょっと待てよ。その一億だかなんだかのお金は、一体どこから持って来るんだろう。
手品のように湧いて出るわけでもあるまいし、その原資はどこにあるのか?
そりゃあもちろん、オレたちの納める健康保険料だろう。
いや、どうやらざっくり半分くらいは、公費の補助が入っているらしい。
だが公費というのは、要するに税金のことだ。結局のとろは、ありがたくも何ともない。全部が全部、オレたち自身の払いなわけだ。
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「マネーロンダリング」という言葉がある。
お金が次々と形を変えて回っているうちに、その本来の性質と出所が忘れられてしまう。
それと同じことが、ここでも起こっているのだ。
「公の金」の姿を纏ったとたん、それが元々オレ達の金である事実が見失われてしまう。
病院に行く金がないから恵んでくれ、と誰かに言われて一万円を差し出す人はいない。
だがここでは難病の少女の命を救うために――ときには90才の、死にかけの爺さんの命を半年延ばすために、オレ達の一億円が使われているのだ。
一億円の薬なんてレアケースだろう、と高をくくってはいけない。
百万円の薬だって、百人が使えば結局は同じことなんだから。
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もちろんオレたちだって、いつ同じような病気にかかるかわからない。
そのときにはやはり、国に助けてほしいと思うだろう。
そんなまさかのときに備えて、みんなが少しずつお金を出しあう。そんな相互扶助の仕組みがあるのは、いいことにちがいない。
だがそれもあくまでも、財政に余裕があればの話だ。
今や健康保険は軒並み大赤字で、破綻寸前だ。
そればかりではない。日本の国そのものが、千兆円を超える借金(普通国債残高)を抱えている。世界でも断トツ1位の、目のくらむような数字だ。
一般国民がただ気が付いていないだけで、これもまた本当は、破産の瀬戸際なのだ。
この厳酷な事実から目をそらして、いつまでも相変わらずのバラマキを続けている。
それはまた、先の大戦と同じメンタリティーだ。
まあ、これまでも何とかなったのだから、これからも何とかなるだろう。どっちみち、責任を取るのは自分ではないのだから――みんなでそう信じ続けた結果が、あの焼け野原だった。
今度だって同じことだ。すべては先送り、後は野となれ山となれ。
そんなバラまきの先に待ち構えているもの。それは間違えなく、日本経済の焼け野原なのだ。
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それでもさすがに、これはまずいと、ときどき緊縮の話が持ち上がる。
高額医療費にしてもそうだ。ついこのあいだも、十万円の負担上限を八千円ほど引き上げる案が浮上した。何とか保険財政を立て直そうと、四苦八苦しているわけだ。
だがこれに、患者団体が猛抗議した。(注)自分たちに死ねと言うつもりか。いのちをないがしろにするつもりかと、永田町をデモ行進し、15万人の署名を集めた。
これに石破内閣はあわててしまった。
ただでさえ前代未聞の低支持率だ。このうえ人命軽視のレッテルを貼られては、とうてい参議院選挙は乗り切れないと、あっさりと改革案を引っ込めてしまった。――
(話は次回に続く)
<高額医療> 一億円の薬は十万円でゲットする(1)
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